バベルの塔

 コンピュータにまもらーれたー、バビルの塔に住んでいるぅー、超能力しょーねん、バビル二世♪


 古いアニメにもなったバベルの塔ですが、実は聖書によると、大昔は世界中は同じ言葉を使って、同じように話していたのです。その記事では東の方から移動してきた人々が、平野を見つけてそこに塔を建て、天まで届く塔のある町を建て、有名になろうとしました。神はそれを見て怒り、言葉を通じなくさせてしまったので、人々は塔を建てることができなくなりました。神が全地の言葉を混乱(バラル)させ、人々を散らしてしまったのです。


面白い話だし世界中に違う言語がある原因もわかるため、この話は昔の西洋人には「なるほどね」というナットクの話になっています。
 日本語でも、方言という違う言語がありますね。昔のことわざにも、『言葉は国の手形』というものがあります。(「手形」は江戸時代の身分証明と通行許可証を兼ねたものなので言葉の訛りから、その人の出身地を知ることができるというたとえのことです)。しかし日本語の方言は西洋各国どうしの言葉よりは、日本人どうしお互いに通じるものが多いような気がします。(もちろん鹿児島弁など例外はあります)。


 言葉やネーミングに関するイギリスの有名な一般逸話として、こういうものがあります。
 五歳の娘が母に聞きました。
「お母さん、ブタはなぜpigなの?」
 母はしばらく考えて答えました。
「ブタにピッタリの名前だからよ」


 聖書的には、天地創造の直後、アダムが地上のものに名前を付けたことになっています。人間がピッタリの名前をつけたから、というのが背景にあるのでしょうが、しかし現実にはいろんな名前や言葉が世界中にあふれています。


 要は神さまが言葉を分けたときに、名前も自然とわかれたという考え方なのかもしれません。
 そういうわけで西洋では「ブタにはpigがピッタリの名前」という考え方をするのが普通なのでしょうが、日本語では『ブタはブーブー鳴くからブタ』って言う人もいます。もちろんブーブーという擬音語は世界共通の言葉ではありません。

 また、言葉という意味も日本語では、「言の端」、つまり限界があるものだと考えられています。言葉にならないものがある、というのが日本語の前提としてあるわけ。言葉以外の言語ツール、すなわち空気を読むとか察するとか、同質社会特有の論理がそこに見え隠れします。

 このバベルの塔の逸話は神さまが人類に別々の言葉を与え、お互いに理解し合うのが難しい状況にさせたということがふつうの人にも感じられるんですが、言の葉という限界を悟っていた日本人はすでに日本人どうしですら理解し合うのが難しい状況だと考えているのかもしれません。だからこそ、言葉以外の言語を使おうとするのでしょう。

 わたしたちは言葉によって、混沌とした世の中に秩序を生み出そうとする。ところが神さまの罰により、その秩序が築きにくい世の中になっているというのが聖書的解釈。


 この「言葉が通じない」というネタを使って、わたしの知っている洋ドラ(スタートレックというシリーズ)にもナゾがナゾを呼ぶ展開があったりして、聖書の影響がモロ見えるなと感心します。とくにDS9(ディープ・スペース・ナイン)というシリーズの中には、ドラマのタイトルにそのものズバリ「Babel」という原題のものがあります。突然、登場人物どうしがふつうの会話からワケのわからない言葉になってしまい、そこから命令も指示も日常会話すら出来なくなってしまいます。それはひとつの病原体が原因だったのですが、そのウイルスのせいで登場人物は脳をヤラれ、死に瀕してしまうのです。

 会話が成り立たないことが死に通じるというところが西洋的で、お気に入りのエピソードです。
 

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