ソクラテス以前・タレス他の哲学者

世界で最初の哲学者タレスは、世界は水で出来ていると考えました。
それまで神話的にものごとを考えていたギリシャの常識から考えると、発想力が素晴らしいのです。
考えてもみてください。
自分たちがずっと教えられていたことに対して、疑問を持つのは並大抵の才能ではありません。

たとえば。

あなたの周りには、陰謀論にハマった人はいませんか?
それもまた、教えられたことに疑問を持たず、ひたすら自分の考えに固執した人です。
彼らは、自分は悪くない、世の中が悪いと信じています。
ネットでそう教えられたからです。
自分だけが真実を知っていると考え、自分も他人も傷つけます。

NHKによれば、もっとも身近な人がハマったときには、全面否定せずに受け容れて、
論理が矛盾していたたり、おカネが絡むところはしっかり指摘しつつも、話題の共通項を探していくのが吉なんだそうです。
特に親がハマったときには、家族の理解が必要とのことでした。

わたしは、陰謀論にハマる人たちに対して、理解や共感を示すことが大切だと思います。

しかし、それと同時に、陰謀論が真実ではないことや、陰謀論に基づいて行動することが、自分や他人に危害を及ぼす可能性があることを、論理的に説明することも必要だと思います。

陰謀論にハマる人たちは、自分の信念に固執する傾向があるので、話を聞いてもらうのは難しいかもしれませんが、根気よく対話を続けることが重要だと思います。

 この例に見られるように、自分の常識にあらがうのは難しいのです。なのに、タレスはその常識を疑い、新しい観点を提示したのです。

タレスは最後に、すべては「神々にみちみちている」と言ったそうです。しかし彼はホメロスの神々を思い出さなかったことは確かだ、と『ソフィーの世界』に書いてありました。
タレスがどんな書物を残したのかはわかりません。タレスに限らず、ソクラテス以前の哲学者たちは、書物に自分の思想を書き残さなかったのです。

ネット情報によると、ヘロドトスがその著書『歴史』に、そういう哲学者たちの名前や思想の記録をわずかにのこしたのだとか。
タレスのあと、アナクシマンドロス(BC610~541年)ミレトスの人が現れます。我々の世界は何かから何かへと消えていく、沢山の世界のうちの一つに過ぎないと考えました。
まるでうたかたの世界ですね。

そのあとはアナクシメシス。彼は「空気」または「息」がすべての元素だと考えました。ところが、その考え方には、大きな欠点がありました。なぜある元素は不意に変化して、まったく別のものになったりするのか? それは大きな疑問だったのです。

そのあと2つの対立する哲学が出て来ました。
ギリシャの植民地エレアの哲学者、パルメニデス(BC540~480年)
a)何も変化することは出来ない。従って
b)感覚はアテにならない
ヘラクレイトス
 a)万物は流転する。そして
 b)感覚はアテになる。

エンペトクトス(BC494 ~434年)は、このふたりの不一致の原因は、元素がたった一つだ、ということからほとんど当たり前のように出発していることによる、と考えました。彼は自然には四つの元素(根・こん)があると確信、その元素は土、空気、火、水だと考えました。
アナクサゴラス(BC500~438年)は、自然は沢山のちっぽけな部品が組み合わさって出来ていると考えた。アテナイの哲学者第一号で、太陽は燃える火の玉だと主張したことで有名なのだそうです。
 アナクサゴラスはその主張のせいで、ギリシャの人々から「神を敬わない」と訴えられました。ギリシャでは太陽は神だったからです。
デモクリトスは「原子」を論じたため、唯物論者と呼ばれています。
ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC484~424年)とツキジデス(BC460~400年)の両者は、自然哲学者について触れました。
そしてソクラテスに至ります。

序章

  MAROさんの哲学入門エッセイ『聖書を読んだら哲学がわかった』によると、「哲学書を読んでも、なにがなんだかよくわからないのは、聖書を読んでいないからだ」と冒頭で言い切っている。

「聖書は人間の取扱説明書だからだ」

と明快な結論を冒頭から述べている。


 ほんとうだろうか。


 クリスチャン2世としては、暗記するほど聖書を読んでも、それが人間の取扱説明書だという印象は受けない。特に旧約聖書を読んでいると、お話としては面白いけど、現実的じゃないと思うことの方が多い。

 楽園にいたアダムとイブが、悪魔に誘惑されて禁断の木の実を食べて楽園を追い出された。人間の罪はそこからはじまったとキリスト教は説く。たしかにこのストーリーで現世で直面しなければならない多くの理不尽さへの説明がなされている点では評価できる。


 では神はなぜ、楽園に禁断の木を植えておいたのか? そもそもそんなものがあるから、ついふらふらと食べてしまうのではないか。神は全知全能なのだから、アダムの罪は知っていたはずだ。それを責めて楽園を追い出すなんてつじつまがあわない。


 そうだ、この話はよくある昔話のひとつでしかないのだ。聖書は成立する前は、口伝もあったと聞いている。口伝と言えば昔話。「ツルの恩返し」でも、覗いちゃダメと言われてついふらふらと覗いてしまい、ツルが立ち去ってしまうではないか。

 昔話を必死でキリスト教に結びつけようとしてムリな理屈を並べているのではなかろうか。きっとそうだ。となると、これのどこが人間の取扱説明書なのだろう。

いったい、人間の取扱説明書って、どういう意味?


 のっけから反感を抱きつつ、MAROさんのエッセイを眺めた。MAROさんは宗教一世だというからそれだけ純粋なのだろうが、生まれたときから日本でクリスチャンをやっていると、純粋さなど抜けてしまう。

 わたしは哲学など習ったことはないし、だいいちデカルトの「我思う故に我あり」とかパスカルの「神さまを信じた方が得だ、だからそれに賭けてみる」という言葉ぐらいしか有名な言葉を知らない。

 教会の前にひれ伏して「あなたは神を信じますか」という人たちには、きみょうな憐れみすら感じる人間だ。しかしそれでも哲学や宗教に興味があるのは、人によると「哲学は小説の主題」というからである。


 わたしには小説で描きたいテーマがひとつある。その小説はファンタジーだが、人の痛みに寄り添い、ともに生きる意味を追求していく人間の話になるはずである。そんな話を書くためには、なぜ、人は苦しむのか、なぜ人は死ぬのかという問いを真剣に考えなければならない。多少は宗教くさくなるかもしれないが、生まれ育った環境からは逃れられないのが人間というものである。


 哲学が、「人間とはなにか」を問うものであるならば、小説はそれを描写やストーリーなどの中で追求していく媒体であろう。たぶん、人間的なものへの基礎的素養が哲学ということになるのだろうし、もし、聖書を深く読むことで哲学が少しでも判るなら、小説の基礎が少しは出来ることになる。

 つまり、わたしにとって現時点での聖書は「人間の取扱説明書」というより「小説の基礎的素養書」ということになる。


 別な角度から言うならば、聖書は仏教徒の夫に「なにか面白い話してよ」と聞かれたときに語って聞かせる物語であり、わたしの行動をしばるひとつの規範でもある。哲学とは無関係ぽい気がしないでもない。MAROさんは、どうやってキリスト教と哲学を結びつけるつもりなのだろうか。
 このシリーズは、MAROさんのエッセイについて思うことを率直に語ったものである。人から見れば傲慢で挑戦的なシリーズになるだろう。しかし信仰という山にのぼって遭難して痛い目にあったこともあるわたしにとっては、現時点での正直な話なのである。(以下次号、不定期連載)
 
  
 

その後の聖書あれこれ

その後の聖書あれこれ

 ダビデの話の前に、こんな話があります。サムソンとデリラの話です。
 実はイスラエルは、一時期ペルシャに支配されていたことがあり、サムソンはイスラエルのなかではかなり力のある部族の一員でした。生まれたときに、神から、
「髪を切るな、切ったら怪力が失われる」
 と言われて、ずっと髪を切らずにいました。
 ペルシャとの戦争で、自慢の怪力で大活躍したサムソンですが、その力の秘密をデリラというペルシャの女に探られてしまいます。
 色仕掛けでせめられたサムソンは、当初ウソを言ってごまかしますが、どうにもごまかしきれず、ついに真実を話してしまいます。
 そこで髪を切られ、怪力を失ったサムソンは、目をえぐられて牢に入れられますが、牢に入っている間に髪が伸び、怪力を取り戻します。そしてペルシャ人の集まる神殿で、柱を折って神殿を壊し、自分もろともペルシャ人を殺してしまうのです。

 そんなふうに、ペルシャ人とイスラエル(ユダヤ人)は仲がよくなかったんです。その支配をうとましく思っていたサムエルという預言者は、サウルという人に油を注いで王にします。サウルは戦争で大活躍しますが、だんだん、精神状態がおかしくなってきました。おそらく、初めての王ということもあり、戦争のプレッシャーがあったんでしょう。
 そこで、見目麗しいダビデという羊飼いが、竪琴を弾いて彼を慰めることになりました。ところが、そんな折、ペルシャからゴリアテという巨人が現れ、自分と勝負しろと言ってきたのです。もし、負けたら国が奪われる――。ダビデは単身、立ち向かいます。
 羊飼いだった頃に、投石でオオカミや野獣をやっつけたことがあったので、ゴリアテだって倒せると思ったのです。しかし、ほとんど素手だったので、力自慢で巨人のゴリアテは嘲笑しました。
 そして勝負の時。
 この、息づまる一瞬を、ミケランジェロは「ダビデ像」に描いています。手には石を握りしめ、相手を睨み付ける美男子ダビデ。下半身モロ出し(こら)。
 相手が動くその瞬間、ダビデは石を投石器で投げつけました。
 たかが石。ばかばかしいと嗤っていたゴリアテの、ちょうど眉間にぶち当たります。
 そこは人間の急所のひとつでした。ゴリアテは、どうっと倒れて死んでしまいました。

 ダビデは一躍、英雄になりました。サウルの息子ヨナタンは、特にその功績を喜び、いっしょに手を取り合って祝いました。
 ところが、サウルは面白くなかったんです。王の自分より、ダビデの方が人気者なんで……。
 だんだん、精神状態も悪化していき、 サウルはダビデを殺そうと思い始めました。
 ヨナタンは、必死でとりなします。なんとか、ゆるしてやってください。
 身の危険を感じていたダビデは、すでに隠れていました。ヨナタンは、使いの者に手紙をつけてよこします。自分は狩猟に出ようと思う。もし、サウルがまともだったら、矢を自分の近くに放つようにする。でも、サウルが君を殺そうとするなら、矢を遠くに飛ばしていこう。
 ヨナタンは、親愛なる父の真意をたしかめます。しかしサウルの精神は、すっかり荒廃していました。ヨナタンは絶望し、引き裂かれる思いで狩猟に出かけます。そして、矢を遠くに飛ばして、待ち合せ場所に隠れていたダビデに警告するのです。
「矢は向こうに行ったぞ、取りに行け」
 従者に命じるヨナタン。ひとりきりになったのをみはからって、ダビデが隠れていたところから出て来ます。そしてふたりは、しっかと抱きあい、涙ぐんで別れを惜しみました。

 サウルはその後、死んでしまい、ダビデが民衆の歓呼のもと、王位に就きます。その息子が賢王にして魔術師ソロモンで、イスラエルの黄金時代は、ここに始まるのでした。
 ちなみにソロモンの裁判で有名なのが、大岡裁判のモトネタにもなったと記憶している子どもの争奪戦です。莫大な財産を相続した子どもがいて、その母親を名乗る人物が二人出て来ました。どちらの言い分ももっともらしく、どうしてもホンモノが誰か判りません。ソロモンは、子どもをふたりで引っ張り合って、子どもを取れた方がホンモノだと言いました。
 いよいよ子どもが引っ張られていくと、母親同士、力がこもるあまり、子どもは痛さのあまり泣き出してしまいました。片方が思わず手を緩め、もう片方の手に子どもが渡ったたとたん、ソロモンは言いました。
「手を緩めた方がホンモノ。だって、ホントの母親なら、子どもが痛いのを黙っているわけがない」
 それが賢王であると言われる一つの例だったりするわけです。

その後、イスラエルは分裂、民衆がバビロンに捕囚されたりします。時代は下っていきまして、ダニエルがシャーロック・ホームズばりの推理をする話もあります。その当時のバビロンでは、偶像がものを食べるとマジに考えられていて、ダニエルが、床に灰を撒いて偶像のなかに潜んでいた人々の足跡を見つけ、詐欺を見抜くわけです。この話は、旧約聖書続編に書かれていますが、当時の人々の考え方が面白くて、わたしはけっこう好きですね。
ということで、旧約聖書の話は、ざっとこんな感じです。ほかにもいろいろ、旧約聖書には載ってますが、わたしは個人的に好きじゃないので紹介しません(いいのか)。

より詳しくは、聖書と神話の話を挿絵付で紹介しているこのサイトが参考になるかも知れません。
https://note.com/satonao310/m/m60df1e909421

 長々、お付き合いいただき、ありがとうございました。
 リクエストがあるなら、新約聖書の話も書きますが、こっちはお話自体がちょっと説教くさいので、受胎告知とかはともかく、説教くさいのがお嫌いな方にはオススメしません。ことわざになった、「豚に真珠」「笛吹けど踊らず」「砂上の楼閣」「目からウロコ」は、新約聖書から出ていますが、興味ありますでしょうか……。ちょい、不安だなあ。(了)

出エジプト記(後編)

  三: ファラオとの交渉

 ということで、モーゼはアロンといっしょにファラオの元へ行きました。前のファラオは死んでいたので、例の殺人事件は発覚していませんでした。
 今のファラオに面会したモーゼは、この国を去りたいと申し出ます。すると今のファラオは、これはぜったい、イスラエル人が仕事を怠けたくて言い出したウソだ、と思い込み、藁を使わずにレンガを一定量つくれ、という無理難題をふっかけます。抗議すると、仕事量が増えました。とんだブラック企業です。


神さまの命令通りにしたのに、民衆が苦しんでいる。ワケがわからないモーゼは、神さまを責めますが、神さまは「だいじょうぶだ、無事脱出できる」と繰り返すのみでした。
 てなわけで、もう一度ファラオに面会することになりました。ファラオはぜったいに譲らないので、モーゼの兄アロンが、神の言うとおりの奇蹟を行いました(杖をヘビに変えたんです)。しかし、ファラオのお気に入りの魔術師たちも、同じことをしたので、ファラオは馬耳東風。


 そこで神はモーゼに言いました。
「ナイル河の川上の水を杖で打つと、水は血に変わる。川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル河の水を飲むのを嫌がるようになる」


 そのとおりになってしまいましたが、やはり魔術師たちが秘術を用いて同じ事を行ったので、ファラオはガンとして言うことを聞いてくれませんでした。
 ナイル河が血になってから、七日経ちました。神はモーゼに言われました。
「ファラオに言いなさい。もし、イスラエル人を解放しなければ、あなたの領土全体にカエルの災いを引き起こす。ナイル河にカエルが群がり、あなたの王宮を襲い、寝室に侵入して寝台にのぼり、さらに家臣や民の家にまで侵入し、かまどやパンのこね鉢にも入り混む。カエルはあなたも民もすべての家臣をも襲うだろう」
 そのとおりになってしまいましたが、やっぱり魔術師たちが同じ事をしました。しかし、今度はファラオも音をあげて、さっさと出て行けというので、モーゼは満足して帰りました。とたん、カエルが全滅したので、人々はその死骸を幾山にも積み上げ、国中に悪臭が満ちました。ファラオは一息つくヒマができたので、心を頑迷にし、またモーゼとアロンの言うことを聞き入れなくなったのでした。何度やってもダメなときって、ありますね。
あと、ぶよが襲って来たり、あぶが襲って来たり、疫病が流行ったり、雹(ひょう)が降ったり、イナゴが襲って来たり、暗闇になったり、エジプトはさんざんな目に遭いますが、ファラオは決して応じません。
国の責任者としてどうよ、と思うけど、プライドがあったのかな。
  最後に、神は死の天使をエジプトにつかわし、エジプトのすべての長男長女を死なせると宣言。この月をイスラエルの正月として、年の初めにするようモーゼに命じました。エジプト人の初子は死にますが、イスラエル人は、家に印をつけているので大丈夫というわけ(これを過越の祭、と聖書では呼んでいます)。

こうして長男を失ったファラオは、強烈に反省して、イスラエル人を脱出させる許可を出してくれました。

 四:海が割れるのよー 道が出来るのよー♪ &『十戒』

 神は夜は火の柱、昼間は雲の柱になって、約束の地へとイスラエル人を導きます。
 無用な戦いを避けて葦の海に出ると、その背後に、エジプトの軍勢が!


 実は、イスラエル人の労働力を惜しんだファラオが、彼らを連れ戻そうとしたのでした。
モーゼは神に助けを求めます。神はモーゼに杖を掲げろと命じます。そのとおりにすると、海が真っ二つに裂け、底に道が出来ました。イスラエル人はそこを無事に歩いて脱出。その背後を追うエジプト軍勢は、海が元どおりになったので溺死してしまいました。


 その後、モーゼは次々と奇蹟を行います。苦い水を甘くしたり、マナと呼ばれる天のパンを降らせたり。あるいは、岩を杖で叩いて水をほとばしらせたり。
 途中で戦争もありましたが、とにかく長期にわたって、砂漠をさまようイスラエルの人々。神はやがて、有名なシナイ山へとみなを導きます。


 モーゼはこのシナイ山で、映画のタイトルにもなった『十戒』を神から石版としていただきます。
実はこの十戒、メソポタミアのハンムラビ法典にそっくりだということが、聖書考古学で証明されています(またしても盗作ですな!)


 そのことから、聖書は西洋のものではなく、もとはオリエンタル(中東・東洋)のものであった、という考え方もあります。
こうして石版を与えられたモーゼは、いったんは帰りますが、帰って見るとイスラエル人たちは、ヤハウエ神以外の神(金の子牛)を祀っていたので、モーゼは怒って石版を壊してしまいました……。
 ともあれ、もう一度シナイ山に登ったモーゼは、再度石版を貰い、アークと呼ばれる聖櫃(箱)の中に、それを入れました。一説には、その石版を手にしたものには、絶大な権力が手に入るそうで、その争奪戦をモチーフにしたのが映画『レイダース:失われたアーク』ですね。


エジプトを脱したイスラエル人たちは、かずかずの戦いを経て、ぶじ、(神の)約束の地にたどり着きました。その後、異邦人ルツが姑のナオミと仲良くした逸話(わたしの名前なおみの由来)があり、ペルシャ(現イラン・イラク)がイスラエルと戦い、イスラエルと険悪になったこと、預言者(神の言葉を預かる人)と呼ばれるサムエル(英語でサミュエル)という人が出て、サウルが現れ、羊飼いのダビデが出て来ます。
次回は、ダビデ(デイビット)とヨナタン(ジョナサン)の友情物語です。お楽しみに。

出エジプト記(前編)

 出エジプト記とは、それまでイスラエル人が暮らしていたエジプトを脱出し、約束の地へと集団で旅に出た道のりを、モーゼを中心にして描いた物語です。少し長いですが、お付き合いください。

 一:事の発端

  前回、ヨセフが家族をエジプトに呼んだことから、何十年も月日が経ってどんどんイスラエル人が増えてきました。エジプトのファラオは、これを脅威と考えました。自分の国の中に、異分子が増えるとややこしいですからね。
 そこでファラオは、イスラエル人の中で、生まれた男の子はぜんぶナイル河に放り込め、女の子は生かしておけと命じます。
 で、イスラエル人の中で、祭司の血筋の女性がみごもって男の子を産みました。かわいかったので三ヶ月、隠しましたが、隠し通せなくなって男の子をパピルスの籠に入れ、アスファルトなどで防水して河に流します。すると、ちょうどそこへ水浴びに来ていたファラオの王女が、赤ん坊を見つけて「可愛い!」と言って河からひきあげました。イスラエル人の子であっても、引き取って育てたいと言い出します。心配で隠れてそばにいた赤ん坊の母を乳母にして、王女はいいました。
「この子は水の中からわたしが引き上げたから、マーシャー(モーゼ)と名づけます」
 ということで、モーゼは王子として育てられることになりました。

 二:エジプトからの逃亡、モーゼの召命

 モーゼが成人したころのこと。彼は同胞イスラエル人のところへ行き、彼らが重労働に服しているのを見ました(映画『十戒』では、ピラミッド建設に携わったことになっています。ファラオがユル・ブリンナー。ハゲのおっさんですね)。そして、ひとりのエジプト人が、同胞を鞭で打っているのを目撃。正義感にかられて、あたりを見まわし、誰も見ていないのを確かめると、モーゼはそいつを打ち殺して死体を砂に埋めました。
 その翌日、今度は同胞同士がふたりしてケンカをしているのを見て、モーゼは、
「なんで仲間同士なぐるんだ」と悪い方をたしなめると、
「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」


と言い返したので、モーゼは、さてはあのことがバレたのかと恐怖しました。ファラオにもバレて殺されそうになりますが、モーゼは逃げてとある井戸の傍らに腰を据えました。
 その井戸の持ち主と仲良しになり、娘と結婚するモーゼですが、ある日羊を放牧して神の山ホレブに行くと、なんと芝が燃えている。なのに、いつまでも燃え尽きないのです。
 ふしぎに思って近づくと、芝から声が。
「モーゼよ、ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」


さらにその声は、続けて言いました。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使うもののゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から救いだし、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へと導きのぼる」
 乳と蜜が流れる土地って、どんなんだろー。


 神さまが約束した土地。だから、約束の地。理想郷ですかね。
 この故事から、アメリカのことを清教徒たちが「約束の地」と呼んだりしているわけです。自分たちは故国でひどい目に遭ったけど、アメリカは広々としたすばらしい土地だというわけ。何千年も経つのに、聖書の影響力ってすごいね。
 閑話休題。
 神さまは同時に、エジプトのファラオは、なかなか行かせてくれないだろうとも予言しました。
 前途多難であることを考えると、モーゼはゆううつになります。神は、彼の持っている羊飼いの杖をヘビに変えたり、彼の手を重い皮膚病にして治したりしました。これだけやっても聞かなければ、神にも考えがあるというのですが、それでもモーゼはためらいます。

「自分は弁が立つ方じゃないので、向いてない」
 と断ります。
「あんたには、雄弁な兄アロンがいるじゃないか。いっしょに行け」
 神よ、そんなに言うなら自分で行けー。とモーゼが思ったかどうかは知りませんが、断り切れなくなって、モーゼ、エジプトへと戻ります。

ヨセフ物語

今回からは、アラスジを中心にお話しします。
より詳しくは挿絵付のこのサイトが参考になるかも知れません。
https://note.com/satonao310/m/m60df1e909421

 さて、わたしなりにざっくり聖書物語ヨセフ編をお話しします。
 ヤコブの子にヨセフ(ラテン語でJoseph 英語ではジョーとかジョーイとか言います)という人がいました。このヨセフは、父のちょーお気に入りで、兄たちのことをしょっちゅう父に告げ口していたので、兄たちからは憎まれておりました。しかもヨセフは見た夢を、軽はずみにも兄たちに告げてしまいます。それは、以下のようなものでした。


「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起きあがり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さん達の束が周りに集まってきて、わたしの束にひれ伏しました」
 兄たちは、ヨセフに言いました。
「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか」
 ヨセフをますます憎むようになる兄たち。そんなこととも知らず、無邪気なヨセフは、別の夢を見たので、兄だけでなく、父にも話しました。
「太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです」
 父は叱って言います。


「いったいどういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」
ねたみのあまり、兄たちは、ヨセフを殺そうとするんですが、次男のルベンは、命は取らずに穴にだけ放り込もう、と言いました。殺してもしょうがないから、奴隷に売ろうということになり、ヨセフは奴隷商人に売られてしまいます。ヨセフの着物は雄山羊を殺して血まみれにし、父には野獣に食われたことにしちゃったんです。


 奴隷になったヨセフは、エジプトに連れて行かれます。そうしているうちに奴隷監督官の妻に言い寄られ、色仕掛けにあいます。好みでもなかったヨセフは、妻を袖にしますと、妻はヨセフが自分を襲ったと濡れ衣を着せました。


 ヨセフは投獄されます。その後、ふたりの牢の仲間と仲良くなり、夢を解いてあげました。あなたは近々、ファラオに採用されるでしょう。しかしもうひとりは処刑されるでしょう。だから、もし、採用されることがあったら、わたしを取りなしてください。


 そのとおり、ひとりはファラオの目にとまります。もうひとりは処刑されました。生き残った方はヨセフのことなんかすっかり忘れてしまいます。
 三年後、ファラオは三つの夢を見ます。学者や占い師に相談しても、みんな首をひねるばかり。牢の仲間はヨセフを思い出して紹介。夢を解いて、そののちに起こるであろうエジプトの危機(飢饉)を予言するヨセフ。みごとな手際に、ファラオは大喜び。ヨセフは宰相に任じられました。飢饉に備えて倉庫にはぎっしり小麦の山。


 その後やってきた飢えに苦しみ、イスラエルと兄たちは、そうとも知らず、エジプトの小麦を借りにやってきました。ひれ伏して温情を願う兄たち。復讐心にかられ、一時はイタズラしたりもするヨセフでしたが、すべてを許してみんなをエジプトに呼び寄せ、幸せに暮らしました。
 ところが、それから年月が経つにつれて、エジプトにイスラエル人が増えることを、快く思わないファラオが出て来たのです。

 次回からは、モーセが出てくるお話です。『十戒』の映画の元。
 長文ですが、よろしくお願いします!!!!!
 

ソドムとゴモラ

 その後、アブラハム(米大統領リンカーンの名前の由来)という人が出てきて、イスラエルの土地の所有権を神から与えられます。子どもにイサク(アイザック・ニュートンの名の由来)が生まれましたが、ソドムとゴモラの町は神の前に重い罪をおかしたので、アブラハムの取りなしにもかかわらず、天の火をもって滅ぼされてしまいました。(滅ぼしてばっかりいるなあ……)


 天使から警告されていた甥のロトとその妻はからくも脱出しますが、決して振り向くなと言われていたのに妻は途中で振り向いてしまい、塩の柱になってしまいます。(いまでも砂漠にぽつんと立っているそうです……)。

 その当時のアブラハムがいた場所は、わたしの記憶の限りではメソポタミアあたりだったようです。メソポタミアは農耕地帯で多神教です。日本の昭和時代、神さまのイメージは『髭面の白髪老人で杖を突いている』と思われますが、これはメソポタミアの神がみの中心にあった『エア』からのイメージとそっくりです。メソポタミアが栄えたのは5000年も昔のことですから、非常に強い影響力を持っているようですね。


そんな神々に囲まれて、どうしてヤハウエみたいな神が「本当の神」だということになったのかは、古代エジプトに一時期はやった一神教と関係があると言われています。また、白髪老人で杖を突くイメージも、もしかしたら中国由来の「仙人」的発想で、キリスト教とは無関係かもしれません。専門家ではありませんし、学びたくてもおカネがないので難しいですね。ない袖は振れぬ。

 ともかく、当時から土地の所有権を与えられていたアブラハム。その土地は、イスラエル国を建てるほどに広かったですし、のちにエジプトからユダヤ人が脱出して目指した場所も、その土地(「約束の地」)でした。その後、イギリスで迫害を受けた清教徒たちが、「約束の土地」としてアメリカを目指したのは、この聖書の記述に影響されたからです。まだ見ぬ土地だが、自分たちの信仰にふさわしい豊かな土地に違いない、というのが彼らの信念でした。先住民にとってはとんだ迷惑というところですねえ。


 そんなふうに聖書的影響が強い中で、いまだに根強い影響があるのが『同性愛』に関する禁忌的な感覚です。フランスやアメリカなどではかなり同性愛も一般的になってきて、同性結婚も各地で行われるようになりましたが、日本ではまだまだというところです。その同性愛が、なぜこんなにも嫌われているのか。それは聖書の影響があるからです。


 聖書の記述によると、ソドムとゴモラの町は神の前に重い罪をおかしたと前述しました。のちの人々は、その重い罪とはなにか、聖書に書いていないかどうか熱心に調べました。すると、聖書には、ソドムとゴモラを滅ぼすぞ、と警告にしにきた天使たちを相手に、知り合いたいと押し寄せてくる住民たちがいたと書いてあるのでした。


 知り合いたいというのは、ヘブライ語では「セックスしたい」という意味と同じになります。天使は男性の姿をしており、住人たちも男。つまり、同性愛をしたいという意味だ、とのちの人々は受け取りました。それが神の怒りに触れて滅ぼされたのだと。


 そこで同性愛を『ソドミー』と呼ぶようになり、避けねばならぬ罪深いこと、となりました。同性愛は長い屈折した歴史を歩むことになります。


 また、滅ぼされたソドムとゴモラの町は、いまは観光名所になっているという話を聞いたことがあります。前述したように、砂漠のなかに塩の柱が立っていて、これがロトの奥さんだとガイドさんは案内するのだと聞いています。

 好奇心は猫をも殺すと言うわけですが、そういうところで歴史に痕跡を残してもしょうがないですよね。それに、ほんとうにロトの奥さんが塩の柱になったのかは判らないんです。昔話にありがちなオチのついた話でしかないのかもしれません。

エサウとヤコブ

  アブラハムの息子イサク(英語でアイザック)の息子は双子でした。エサウとヤコブ。兄のエサウは狩りが好きで毛むくじゃら、頭もあまり良くありませんでしたが、父のイサクに気に入られていました。ひょろひょろの優等生ヤコブ(英語でジェイムズ)は、母のリベカ(レベッカ)に気に入られていました。ある日、ヤコブは、うまく兄をだまして長男の特権を奪ってしまいます。


 あまつさえ、目がわるくなってきて、気力もなくなり、死に瀕した父から、エサウのふりをして(羊毛をかぶって毛むくじゃらに変身した)生前譲与財産をすべて奪い取ってしまいました。どこかで聞いた話ですね。


 エサウの怒りをおそれたヤコブは、逃亡の旅に出ます。途中で天使の梯子(ヤコブの梯子と呼ばれている)を見たり、天使と相撲を取ったりして祝福をもらったヤコブは、財産を殖やしてエサウに謝罪し、エサウはそれを受け容れます。

エサウがいかにだまされたかというと、そもそも狩りが大好きだった彼は、長子の権利があるにもかかわらず、あまりそれに関心を持っていませんでした。昔の日本でもそうですが、きょうだいは長子がいちばん大事にされ、ほかは補欠あつかいです。ありとあらゆる権利(財産や名誉など)、父から譲られるモノはすべてもらえる立場にあったんです。なので、これを、まったくもらえない立場にいた次男のヤコブが不満に思うのは当然でしょう。双子だけに、よけいにそう思えたかも知れません。


 エサウが狩りから戻ってきたとき、お腹が空いたのでちょうどマメのスープを煮ていたヤコブに、それをくれとエサウが言うんです。「長子の権利と引き換えなら」とヤコブがいい、「今食べないと死ぬ。それぐらいなら権利はやる」とさっさと権利をわたしてしまった、そこがエサウのアホさかげんなんですね。食べたかったら自分で料理すりゃいいだろうに、と思うのはわたしが主婦だからでしょうか。


 こんなアホな子をひいきするイサクも、やはり欠陥人間です。アホな子ほどかわいいんでしょうが、親の愛がないとひねくれるのは誰しも同じだと思いますよ。ヤコブの気持ちもよくわかる。

 しかし、だからと言って羊毛をまとって兄のフリをし、父をだまして財産をぶんどるのは、人としてどうなんでしょうか。一説によると、アホ兄が一族の長になるのを懸念したリベカが、イサクと共謀してハメたって話もありますが……。

 ヤコブの梯子というのは、西洋では有名な逸話です。ヤコブが旅の途中で野宿し、そこで、天使が天に届くはしごを上り下りする夢を見る、という他愛もないお話。


 ただ、わりと有名な逸話で、いろんなところで使われています。
 たとえば、雲の隙間から光が差すことを「ヤコブの梯子」とか呼んだりしますし、80年代のヒューイルイス&ザ・ニュース(映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のテーマソングを歌った人)の楽曲にも、『ジェイコブス・ラダー(ヤコブの梯子)』という名称のものがあります。


なぜヤコブがジェイムズか。


 ラテン語のヤコブス(Jacobus)→ヤコムス(Jacomus)→古フランス語のジャムス(James) →イングランドでのジェームズ(James) 英語にはジェイコブ(Jacob)とジェームズ(James)
となりました。
英語=ジェームズ、フランス語=ジャック、ドイツ語=ヤーコプ、イタリア語=ジャコモ、ラテン語=ヤコブス
 のように伝わり方などで、各国まちまちですね。

 ちなみに、いまのイスラエルは、ヤコブが先祖。アラブ諸国の先祖はエサウということになっているそうです。昔から仲が悪かったのね。

 こちらには、別の角度から書かれた他の作者のブログもあります。ご参考までに。

https://note.com/satonao310/n/n58dbeabb95a0

バベルの塔

 コンピュータにまもらーれたー、バビルの塔に住んでいるぅー、超能力しょーねん、バビル二世♪


 古いアニメにもなったバベルの塔ですが、実は聖書によると、大昔は世界中は同じ言葉を使って、同じように話していたのです。その記事では東の方から移動してきた人々が、平野を見つけてそこに塔を建て、天まで届く塔のある町を建て、有名になろうとしました。神はそれを見て怒り、言葉を通じなくさせてしまったので、人々は塔を建てることができなくなりました。神が全地の言葉を混乱(バラル)させ、人々を散らしてしまったのです。


面白い話だし世界中に違う言語がある原因もわかるため、この話は昔の西洋人には「なるほどね」というナットクの話になっています。
 日本語でも、方言という違う言語がありますね。昔のことわざにも、『言葉は国の手形』というものがあります。(「手形」は江戸時代の身分証明と通行許可証を兼ねたものなので言葉の訛りから、その人の出身地を知ることができるというたとえのことです)。しかし日本語の方言は西洋各国どうしの言葉よりは、日本人どうしお互いに通じるものが多いような気がします。(もちろん鹿児島弁など例外はあります)。


 言葉やネーミングに関するイギリスの有名な一般逸話として、こういうものがあります。
 五歳の娘が母に聞きました。
「お母さん、ブタはなぜpigなの?」
 母はしばらく考えて答えました。
「ブタにピッタリの名前だからよ」


 聖書的には、天地創造の直後、アダムが地上のものに名前を付けたことになっています。人間がピッタリの名前をつけたから、というのが背景にあるのでしょうが、しかし現実にはいろんな名前や言葉が世界中にあふれています。


 要は神さまが言葉を分けたときに、名前も自然とわかれたという考え方なのかもしれません。
 そういうわけで西洋では「ブタにはpigがピッタリの名前」という考え方をするのが普通なのでしょうが、日本語では『ブタはブーブー鳴くからブタ』って言う人もいます。もちろんブーブーという擬音語は世界共通の言葉ではありません。

 また、言葉という意味も日本語では、「言の端」、つまり限界があるものだと考えられています。言葉にならないものがある、というのが日本語の前提としてあるわけ。言葉以外の言語ツール、すなわち空気を読むとか察するとか、同質社会特有の論理がそこに見え隠れします。

 このバベルの塔の逸話は神さまが人類に別々の言葉を与え、お互いに理解し合うのが難しい状況にさせたということがふつうの人にも感じられるんですが、言の葉という限界を悟っていた日本人はすでに日本人どうしですら理解し合うのが難しい状況だと考えているのかもしれません。だからこそ、言葉以外の言語を使おうとするのでしょう。

 わたしたちは言葉によって、混沌とした世の中に秩序を生み出そうとする。ところが神さまの罰により、その秩序が築きにくい世の中になっているというのが聖書的解釈。


 この「言葉が通じない」というネタを使って、わたしの知っている洋ドラ(スタートレックというシリーズ)にもナゾがナゾを呼ぶ展開があったりして、聖書の影響がモロ見えるなと感心します。とくにDS9(ディープ・スペース・ナイン)というシリーズの中には、ドラマのタイトルにそのものズバリ「Babel」という原題のものがあります。突然、登場人物どうしがふつうの会話からワケのわからない言葉になってしまい、そこから命令も指示も日常会話すら出来なくなってしまいます。それはひとつの病原体が原因だったのですが、そのウイルスのせいで登場人物は脳をヤラれ、死に瀕してしまうのです。

 会話が成り立たないことが死に通じるというところが西洋的で、お気に入りのエピソードです。
 

ノアの箱船

 さて、アダムの子カインは追放されてあちこちを放浪し、子どもをたくさん作りました。アダムとイブの世代から数えて10代目にノア登場。人々はすでに堕落した生活を送っていたのです。怒った神は大洪水を起こして地上から人間をなくしてしまおうと考えます。


 そして神を敬うノアだけに、箱舟をつくって家族と地上のすべての生き物をひとつがいずつ乗せるよう指示します。


 神はノアに言いました、「木の箱船を作って、世界中のつがいの動物や鳥などを載せなさい。わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える」


 ということで、具体的にどの大きさなのか、指示します。(世界中の動物を載せるには、ずいぶん小さめだと思うけど……)
 人々はノアをあざけりますが、ノアは断固として決行。世界中の動物や鳥や植物などが箱船に入ると、神の言っていたとおり大雨が降り、やがてそれは大洪水へと発展していきました。こうして四〇日四〇夜大雨が降り続け、地上は水浸しになりました。すべての人々や動物たちはことごとく死にたえました。
 
 ちょっと脇道。
 ここに四〇日四〇夜とありますが、実際にその期間降ったわけじゃありません。(降った、という人もいますが、その間箱船のなかの動物たちの糞尿とかどうしたんだろう……)。それだけ長期間降ったという、たとえのようなものです。


 この日数は、西洋では「待ちくたびれた」とか、「焦れていた」とか「疲労困憊」とか、そういった意味に使われることがあるようです。たとえばマイケル・ジャクソンの楽曲『ビリー・ジーン』の一部には、こんな歌詞があります。

For forty days and for forty nigths
The Law was on side
But who can stan
When she’s demand?

 四〇日間昼も夜も
 法律は彼女の味方
 彼女の強い欲求に
 いったい誰が耐えられるのか

これを聖書的に解釈すると、ビリー・ジーンという天災に対して、マイケルが苦難を訴えるという形になっているわけです。歌詞ひとつ取ってみても、裏側がわかると楽しいですよね。

話を聖書物語に戻します。
 箱船の生活は続きました。食料もつきかけた四〇日目、雨がやんだのでカラスを放ってみましたが、カラスはなかなか偵察に行ってくれません。箱船の上でくるくるしているだけです。

 そこでハトを放ってみますと、これは偵察に行ってくれましたが、箱船の停泊所が見つからず、もどってきました。さらに七日待って、ノアは再びハトを箱船から放ちました。見ると、ハトはくちばしにオリーブの葉をくわえていました。さらに七日待ってハトを放つと、もうハトは戻ってきませんでした。これによりノアは水が引き始め、神の罰である洪水が終わったことを知るのです。


 「ハトが平和の象徴」というイメージが世界的に広まったのは、1949年にパリで開かれた「第一回平和擁護世界大会」のポスターのためにピカソが制作したハトの絵がきっかけと言われています。ノアの箱船をモチーフにした「オリーブの枝とハト」は、神と人間の和解のシンボル、人間が神との和解によって得た平和な世界を共に築いていく、平和を象徴するシンボルとなりました。
 

 ちなみにノアの箱船のお話は、メソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』にそっくりで、メソポタミア神話からの盗作だとする人もいます(コレを言うと逆上する人もいるけど)。
 ギリシャなど世界中に洪水伝説が残ってるという話もあり、氷河期から人類が脱却するまでの伝説が残っているのだろう、とする人もいます。


 このあと、神はノアと契約します。二度と洪水を使って地上のものを滅ぼさない。そのあかしに、虹を架けよう。虹が架かる度に、ノアとの契約を思い出す、と。
 虹が希望を象徴するのは、ここから来ています。