序章

  MAROさんの哲学入門エッセイ『聖書を読んだら哲学がわかった』によると、「哲学書を読んでも、なにがなんだかよくわからないのは、聖書を読んでいないからだ」と冒頭で言い切っている。

「聖書は人間の取扱説明書だからだ」

と明快な結論を冒頭から述べている。


 ほんとうだろうか。


 クリスチャン2世としては、暗記するほど聖書を読んでも、それが人間の取扱説明書だという印象は受けない。特に旧約聖書を読んでいると、お話としては面白いけど、現実的じゃないと思うことの方が多い。

 楽園にいたアダムとイブが、悪魔に誘惑されて禁断の木の実を食べて楽園を追い出された。人間の罪はそこからはじまったとキリスト教は説く。たしかにこのストーリーで現世で直面しなければならない多くの理不尽さへの説明がなされている点では評価できる。


 では神はなぜ、楽園に禁断の木を植えておいたのか? そもそもそんなものがあるから、ついふらふらと食べてしまうのではないか。神は全知全能なのだから、アダムの罪は知っていたはずだ。それを責めて楽園を追い出すなんてつじつまがあわない。


 そうだ、この話はよくある昔話のひとつでしかないのだ。聖書は成立する前は、口伝もあったと聞いている。口伝と言えば昔話。「ツルの恩返し」でも、覗いちゃダメと言われてついふらふらと覗いてしまい、ツルが立ち去ってしまうではないか。

 昔話を必死でキリスト教に結びつけようとしてムリな理屈を並べているのではなかろうか。きっとそうだ。となると、これのどこが人間の取扱説明書なのだろう。

いったい、人間の取扱説明書って、どういう意味?


 のっけから反感を抱きつつ、MAROさんのエッセイを眺めた。MAROさんは宗教一世だというからそれだけ純粋なのだろうが、生まれたときから日本でクリスチャンをやっていると、純粋さなど抜けてしまう。

 わたしは哲学など習ったことはないし、だいいちデカルトの「我思う故に我あり」とかパスカルの「神さまを信じた方が得だ、だからそれに賭けてみる」という言葉ぐらいしか有名な言葉を知らない。

 教会の前にひれ伏して「あなたは神を信じますか」という人たちには、きみょうな憐れみすら感じる人間だ。しかしそれでも哲学や宗教に興味があるのは、人によると「哲学は小説の主題」というからである。


 わたしには小説で描きたいテーマがひとつある。その小説はファンタジーだが、人の痛みに寄り添い、ともに生きる意味を追求していく人間の話になるはずである。そんな話を書くためには、なぜ、人は苦しむのか、なぜ人は死ぬのかという問いを真剣に考えなければならない。多少は宗教くさくなるかもしれないが、生まれ育った環境からは逃れられないのが人間というものである。


 哲学が、「人間とはなにか」を問うものであるならば、小説はそれを描写やストーリーなどの中で追求していく媒体であろう。たぶん、人間的なものへの基礎的素養が哲学ということになるのだろうし、もし、聖書を深く読むことで哲学が少しでも判るなら、小説の基礎が少しは出来ることになる。

 つまり、わたしにとって現時点での聖書は「人間の取扱説明書」というより「小説の基礎的素養書」ということになる。


 別な角度から言うならば、聖書は仏教徒の夫に「なにか面白い話してよ」と聞かれたときに語って聞かせる物語であり、わたしの行動をしばるひとつの規範でもある。哲学とは無関係ぽい気がしないでもない。MAROさんは、どうやってキリスト教と哲学を結びつけるつもりなのだろうか。
 このシリーズは、MAROさんのエッセイについて思うことを率直に語ったものである。人から見れば傲慢で挑戦的なシリーズになるだろう。しかし信仰という山にのぼって遭難して痛い目にあったこともあるわたしにとっては、現時点での正直な話なのである。(以下次号、不定期連載)
 
  
 

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