うる覚え聖書の話・宗教戦争はなくならない

004 イエスはコミュ障? そのカゲキぶり

前回は、有名なエピソードということでモーゼの話をしました。海が割れたと言うけど現実はどうだったのかとか、モーゼのヘタレぶりとか、『佐渡おけさ』などを書きました。

あまりウケなかったので(汗) やっぱりお約束どおり、イエスのカゲキぶりを書くことにします。革命家というのは概ねそういう面がある。具体的には親鸞だって、カゲキな一面がありました。そのせいで国と対立して、島流しにあったりしたようです(うる覚えなので堪忍ね(汗))

今回の話は、イエスがいかに時代を先取りしていたか、そのせいで周囲から悪目立ちしていたかって話です。

その前に説明します。
ユダヤ人やローマ人、サマリヤ人などは、〝日本人〟と同じような民族の名称です。一方、サドカイ人やパリサイ人というのは、「○○家」「○○派」といった、家系や思想ごとの集団です。そのため、「じん」ではなく「びと」と呼びます。ほかにも、「イエスはガリラヤ人」という場合は、「ガリラヤ出身」という意味です。「○○人」といっても、多様な使われ方がされているのです。

 

 

イエスは大工の息子ということになってました(前述したように、父親はしれません)。そのイエスが、長らく行方不明になっていて、いきなりガリラヤに現れたとたん、
「悔い改めよ、天国は近づいた」
と宣教をはじめます。

で、病気を治したり、虐げられた人々の家におじゃまして説教したり、相談に乗ったりしていました。当時、そういうことをする人はあまりいませんでした。というか、差別されている人々は、そんなものだと放置されていたのですね。

自分たちのことを思いやってくれる人がいる。

世間から冷たい扱いをされていた人々が慕って集まり、群衆がゾロゾロ。
それで前述したようにイエスの家族からイカれたと思われ、引っ張り戻されそうになったりします。

イエスは、「預言者は故郷では歓迎されない」みたいなこと言ってますが、わたしに言わせると、イエス自身、世渡りが下手だったんじゃないかと。

マタイやマルコの福音書を見る限りでは、パリサイ人や律法学者と論争したときも、かなりキツいことばでかれらを攻撃しています。

 

 

マタイによる福音書第23章には律法学者とパリサイ派(ファリサイ派)の人々に対するイエスの非難がこれでもかというほど記されています。
(引用開始)
「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。」
(引用終わり)

 

と始まります。彼らが口にする律法そのものは間違ったものではないので尊重しなさい。でもあの人達のようになってはいけませんと言われています。
では、なにがいけないのか。

 

鍵となる言葉が、5節の、「そのすることは、すべて人に見せるためである」。「人に見せるため」が「偽善」の本質。それは23章以前から(6章から)偽善者たちが、「見てもらおうとして、人の前で」、施しをしたり、祈ったり、断食をすることが指摘されていました。「人に見せるため」に良い事をする、それによって、自分が立派な人、善い人、神様に熱心に仕え従っている者であることを人に認めてもらおうとする、それが偽善ということです。

 

偽善という日本語は、自分を善い者だと偽るという意味ですが、それは人に対してそう見せる、ほんとうはそうでないのに、人の前では善い者であるふりをするということですから、「人に見せるため」ということが偽善の本質であることは私たちもよくわかるのです。

それはいいんですが、イエスは非難をするあまり、言い過ぎのことまで言ってます。パリサイ人の本質は、白い墓とおなじで外面はいいけど中身はウジがわいてるとかいろいろ……。
そりゃパリサイ人も、怒るわな。
法律を重んじるパリサイ人。マジメな人たちも多かったでしょう。話せば分かる人もでてきたかもしれない。だけどそうせず、非難してばかりいる。イエスはきっと、コミュ障にちがいない、というのがわたしのロジック。
信者のひと、ごめんしてね。

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