二〇二三年四月二十一日(金)、サークルの人が、わたしに言いました。
「あなたが人に恵まれているのは、前世でいいことをしたからだね。これって仏教的かなあ?」と。
たしかに仏教的ですが、そのモトの考え方はインドにあったバラモン教の考え方だと答えておきました。
仏教は、お釈迦さまが始めた宗教ですが、母体になった宗教はバラモン教です。バラモン教によれば、今生きている間にいいことをすれば、来世で幸せに過ごせるという考え方があります。
だけど、考えてみると人間、いつもいいことばかりやっているわけにはいかないわけです。心の中で妬みやひがみなども起こすでしょう。そんなのも罪だから来世で幸せになれないと、閻魔大王が判決したらどうしますか。
来世で幸せという不確かなものではなく、いま、この時点で幸せになりたい。
釈迦は、そう考えて仏教を始めたのでした。
だから、人間は輪廻転生はするけれど、人間のうちに自覚して悟りを開けば、輪廻転生から脱却できるというのが仏教的思想だったはず(と、夫は主張しています)。
キリスト教には、輪廻転生という考え方は存在しません。死は一時的に眠っている状態であり、この世の終わりになればみんなよみがえって、神のさばきを受け、生前の行いに応じて天国と地獄へと振り分けられるんですね。
ところが、リインカネーションという英語が存在することからわかるように、キリスト教社会には、輪廻転生という概念があります。二歳のときに前世の記憶をしゃべった、というアメリカ人主婦もいるとのこと。わたしの周りにはそういう人はいませんので、半信半疑というところでしょうか。
キリスト教は、高圧的に人々を支配してきた長い歴史から、それに反発した西洋諸国がその支配から脱却しようとする試みがありますので、以前ほどパワーは持っていません。そのため、輪廻転生という考え方も、東洋から取り入れつつあるのかもしれません。
しかしヨーロッパには、キリスト教的遺産はあちこちに存在します。カトリック国のフランスでは、弱者救済活動が活発と聞いています。イタリアでは、コロナ禍のなか、自分が感染して死ぬのを判っていながら葬式のための儀式を執り行う司祭もいました。
彼らは、輪廻転生なんて眼中にありません。考えもしていないはずです。天国で神に迎え入れられ、とこしえの命をもらうために、努力しているわけです。死は避けられない運命かもしれないけれど、それを超えて身体がよみがえり、永遠に生きることができる。それがキリスト教の考え方の一つのはずです。
隣人を愛し、お互いを認め合い、仲良く暮らしていく世界が来れば、それが神の国ということなのかもしれない、とわたしは思っています。
さて、信教の自由を謳った憲法二〇条を改正しよう、という向きがあるそうです。個人の宗教の自由だけでなく、法人の宗教の自由も保障しようという考え方があるとか。
日本では、政治を「まつりごと」と捉える長い歴史があり、宗教と政治は一体化しています。輪廻転生が正当化される政治が行われるようになったら、どうなることやら……。
今はつらいけれど、いいことをすれば来世では幸せだよ。
そう考えれば、たしかに心の慰めにはなりますが、現実問題、いいことをしたから今、幸せだとは、よほどの善人でもなければ思えないでしょう。
幸せになる、ということは、どういうことなのでしょうか。
近年、フォークダンスが「男女間の悪影響を懸念する」として、禁止されたと聞きました。政治が庶民に与える影響は、非常に大きい。
過去には、地鎮祭や靖国神社参拝が憲法違反でモメたことがありますが、それもまた、宗教と政治が切り離せない存在だということのあかしです。
その上、日本の宗教観は、日本人の無意識レベルまで達しているので、それを乗り越えていくという発想にはなりにくい。自分は無宗教と言いつつ、道徳の時間で修身(神道的)教育をされている。それに疑問すら抱いていない。
これは、日本が島国だということと関係があるかもしれません。外の宗教と比較するという考え方、それ自体が普通の人には異質なのです。アメリカは人口のるつぼ、カナダはパッチワーク、日本は料理ですね。なんでも自分流にアレンジして食べてしまう。和魂洋才とも言います。珍しいものを口に合うものにしてしまう技術は大変すぐれていると思うのですが、そういう自分を客体化できていないのです。
憲法では、幸福の追求を保障しています。わたしの考えでは、幸せとは、個人だけでなく、周りをも巻き込んでいくものです。
だとすれば、広い意味でも、政治や社会と宗教は切り離せない存在です。
これからの時代は、外国人が流入する時代です。異質なものへの排斥運動も高まるかもしれませんが、だれもが同質であるという時代は終わりつつあります。一歩外へ出て、広がる景色を眺めてみませんか。
無宗教という名の自分の中の宗教を、客観視できるかもしれません。
「はぐれクリスチャンのひとりごと」は、今回でおしまいです。また機会があったら、新しく始めるかもしれません。その際は、よろしくお願いします。(了)