カインとアベル

 アダムとイブは追放されて苦労して働いていましたが、やがてイブはカインとアベルという兄弟を産みました。成長してカインは畑を耕すものに、アベルは羊を飼うものになりました。


 さて、カインとアベルは、それぞれの収穫物を神に捧げましたが、神はアベルばかり祝福して、カインは無視。嫉妬した兄のカインは怒って顔を伏せてしまいました。神はそんなことをしていたら罪が待ち伏せしている、とカインに警告しますが、カインはアベルを野に連れ出して、石でアベルを打って殺してしまいます。


「アベルはどこか」
と神に聞かれて、「知りません、わたしは彼の番人でしょうか」と居直ったカインに、神は、アベルの血が地から叫んでいると指摘。カインは恐ろしくなって、追放しないでくれ、ほかの人に殺されると怯えます。そこで神は、カインの額に印をつけて、彼を守ることを約束し、その場から立ち去るよう命じます。
 人類最初の殺人事件だというわけですが、だいたい、神がえこひいきしたから殺人が起こったんじゃないの? 
 つらつら考えていると、ファンタジー小説『ナルニア国物語』を書いた人が、
「神は都合のいい魔法使いではない」
 と言っていたのを知りました。日本の神だとだいたい、供物やお賽銭をあげれば、ご利益をもらえるものですが、いわゆるキリスト教的な神だと、ままならないもののようです。むしろ、現実的な世の中を反映した神さまと言えるかもしれない。
あんな人が成功するのに自分はこんだけ努力してもダメ、とかはある。

 これをキリスト教では、神の選びと言ったりします。
 選ぶのは神であって、人じゃないってこと。
 
 一説には、アベルはいちばんの子羊(献げ物)を神に献げたのに、カインはふつうの作物しか献げなかったため、神が怒ったという話もあります。


 弟はいいものを犠牲にしたのに、カインはふつうのを献げたんですねえ。


 アベルの場合、子羊は殺されて祭壇に献げられ、丸焼きのコゲコゲにされたんだろうから(それが献げ物としてのふつうのあるべき姿)、カインがそれをもったいないと思って、自分のためにいい作物を取っておいたのだ、と考えることも出来ます。


 これって、恵みを垂れてくださる神に対して失礼な態度ですよね。
「自分は苦労して作物を育てたんだから、少しは目こぼしされるだろう」
 とかなんとか、カインが思ったかどうかは聖書に書いていないので判りませんが、ありそうな考え方です。

さて、ここまで読んで来てくださった方には、ひとつ疑問があることでしょう。


 アダムとイブの直系子孫がカインとアベルなのはわかった。
 人類最初の殺人があったのも、わかった。


 だけど、殺人者のカインがおそれる「ほかの人に殺される」ってどういう意味?


 神に印をつけられて、放浪したっていうけれど、その当時アダムとイブ以外にも人類が居たの?
 つまりその当時、カインとアベル以外にも人がいたの? ということです。


 聖書にはそんなことは書いていません。
 この物語の語っている時代が、どのくらい昔のことなのかも不明です。
 人類最初の殺人事件が起きる前までは、みなさん平和に過してきて、ほかの人については眼中になかったのかもしれまえんが……。


 日本人の御先祖さまは、この頃なにをしていたんでしょうか?
 ノンキに天照大神を天の岩戸から引っぱり出していたのかな。


 気のせいかもしれませんが、どうも聖書を見ていると、一部地域の物語がどこまでも広がっていって、人類最初の、とまで大風呂敷を広げているような印象があります。


 もともとイスラエル人の伝承だったんだし、マジに受け止める必要は無いと思うけど、キリスト教圏の人たちは重大に受け止めて、小説やドラマの主題にこの物語を持ってきたりしますね。
 日本神話にそこまでの影響力がないので、一般の日本人には共感されにくいお話です。
 

天地創造&アダムとイブ編

 なおみの聖書物語:天地創造&アダムとイブ編

 みなさんは、一週間が七日なのはなぜなのか、考えたことがありますか?
 聖書には、ちゃんと理由が載ってます。神が天地創造に費やした時間が六日間で、日曜日から創造をはじめ、土曜日はお休みされたのでした。具体的には、まず一日目に混沌(闇と水)の世界に、光をもたらし、昼と夜が創造されました。二日目は水が上下に分けられて天と地が創造されました(雨は上に水が存在するため降るとされる)。

そんなふうにして、太陽や月、植物や動物などが創られ、最後の金曜日に土を捏ねた神はそれに息を吹き込み、人間が創られました。その人間を神は、土(アダマ)から創ったのでアダムと名づけられました。(そのあと土曜日に休まれたので、それに因んでユダヤ人のいるイスラエルでは、土曜日はどの店も休んでしまうそうです。これを安息日と言います。食料品とか買えないから不便ですね……)


 実はこのあたり、実話で面白いエピソードがあります(ホントかどうかは知らないけれど)。西洋の大航海時代、その当時いちばん権勢を誇っていたスペインが、アンデス地方からじゃがいもを持ち帰ってきました。それを見た宗教指導者は真っ青になりました。というのも、聖書にじゃがいものことが載っていなかったのです。聖書には、「土の上で実をつけた植物を創った」と書いてあるのに、じゃがいもは土の中で実がなる! 悪魔の実だ! というわけ。


 実際に食べてみたら、毒などなかったので、騒いだ人たちは大笑いされてしまった、ということでした。
 話を戻しますと、アダムはひとり、楽園エデンで過すことになります。 人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの肋骨から女を創り、妻として与えました。アダムは彼女をイブと名づけました。


 神は言いました。「ここにある木の実は、全部取ってかまわない。ただ、命の木の実と善悪を知る木の実だけは、食べたら死ぬよ」
 楽しく暮らすアダムとイブ。無邪気に遊ぶイブの所へ、神の留守をねらって悪魔がやってきました。そして、たくみに誘惑します。「死ぬことはありません。それどころかこの実を食べたら神のようになれるよ」。

 で、イブはその実を食べ、アダムにも勧めたので、ふたりはバッチリ、自分たちがハダカだと知りました。思わずイチジクの葉で局所を隠しますと、神がやってくる気配。
 隠れたふたりを見た途端、神は、人間が自分を裏切ったことを知り、怒ります。そして、二人を楽園からエデンの東へと追放し、苦労して仕事をするだろうと予言するのでした。しかし、アダムとイブの末に、救世主が現れ、悪魔を打ち砕くだろう、とも言うのです。


ジェームズ・ディーンの「エデンの東」のタイトルは、このアダムとイブの物語がもとになっています。西洋古典では、よく「原罪」ということを言うんですが、神のようになりたがるおごり高ぶりが罪である、という考え方と、セックスそのものが原罪である(局所を隠したことから)という考え方がありますね。


なんで善悪を知る木の実を創っちゃったのかなあ。人間が善悪を知ったら、トラブルしかないと思ったのだろうか。と個人的に思ったりもする今日この頃。