一部のカルトの言行のために、キリスト教徒というのは輸血を拒否する集団だ、という認識が広がってしまいましたが、結論から言うと、それは間違いです。
ニュースなどで、カルトさんのことを「キリスト教の一派だ」って言ってるけど、聖書も別な訳のを使っています。
カルトである彼らに言わせれば、旧約聖書に血を食べてはいけないと書いてある、輸血も血を食べることになるからダメなんだ、らしいんですが、イエスはこう言いました。
「口から入ったものではなく、口から出たものが人を汚すのである」
要するに、人のことばです。悪口とか、陰口とか、人を傷つけることば。そういうことばが人を汚すというわけ。
われわれクリスチャンは、旧約聖書も新約聖書もセットで信じていますが、イエスのこのことばによって、いまは禁じられた食べものはない、という解釈をしています。
ちなみに旧約聖書を正典とするユダヤ人の禁止事項として、以前にも言いましたが、昆虫やウロコのついた魚などを食べてはいけないことになっています。今でもこの禁止事項を守っているユダヤ人もいますが、そうじゃない人もいます。
どんなことがキリスト教徒の逆鱗に触れるかは、人によって違います。
進化論を教えないアメリカのある州は、ダーウィンの名前を出しただけで、激怒するかもしれません。
その州では、進化論には決定的なムリがある、という考え方をしています。なぜなら、偶然や自然淘汰によってこれだけ整然とした生態系ができるなんて、信じられないしあり得ないというわけですね。
自然淘汰を極限まで認めるなら、たとえばライオンはシマウマを絶滅させていただろう。だが、シマウマは絶滅していない。ライオンは満腹になったら狩りをやめるからです。でも人間はどうか? そういう本能は、なぜ失われたのか? 人間だけが大事な本能が失われるのは自然淘汰の理論からしておかしい、……と言われるのですよ。それはそれで説得力がある。
そんな州では、きっと地球年齢も45億年ではなく、8千年ぐらいなもののはず(聖書の記述を正確に辿れば、それぐらいの年齢になる)。
科学がクルクル定説をくつがえして、そのたびに教科書などを変えたりしなきゃならない事実があるわけで、安定した考え方が児童には必要、というスタンスなのだと考えれば、それもまた、説得力があります(わたしがそれに同調するかどうかは別問題ですが)。
わたしのように左派のクリスチャンでも、軽々しく「神」ということばが、テレビのバラエティ番組やラノベ原作のアニメの会話の中に出てくると、
「神に対して不遜じゃないか」
とムカつくこともあります。
神さまは、自分の思いどおりに動く存在ではありません。たとえば、神さまに恋愛成就のお願いをするならば、それは神さまに対して、
「成就させろ!」
と命令させているのだとキリスト教では考えます。そんな不遜なことは、考えただけでゾっとします。
しかし、ある人を神だと称する傾向は、テレビなどに顕著のようです。
日本人にとって神というのは、そんなにも身近な存在なのでしょうし、ちょっと不安になったときに寄り添ってくれる、「となりのトトロ」的な友好関係を結んでいるのかも知れませんが、
わたしには「となりのトトロ」は(昭和臭くて面白いけど)しょせん精霊とか妖怪レベルの存在でしかありません。登場人物たちが、森を守る大木に祈ったから、トトロという神が出て来たという設定なのでしょうが、神はそんなに都合よく現れたり消えたりしないと思ってます。
自然をだいじにしよう、そこに神がいるというのが宮崎駿のメッセージなのかもしれません。自然と対決してきた西洋の価値観とは違う価値観だなと思います。
西洋の価値観のために、水俣病など日本も大分苦労し、そこから変化しましたが、神意識についてもそれなりの変化があるとわたしは見ています。
その根拠は、ことわざにあります。
昔の人は言いました。
「触らぬ神に祟りなし」
神は祟るもので、親しみを感じるものではなかったのです。
日本の神意識が変化したのは、あきらかに宮崎駿のせいだろうとにらんでいます。
逆に言うなら、アニメやバラエティをおさえておけば、日本人の意識は変えられると言うことになるんでしょうか。みなさんは、どう思われますか?