イエス・キリストは、れっきとしたユダヤ教徒でした。
つまり、救われるのは自分たちだけ、という民族宗教の出身。
ところが、彼は、ユダヤ教のあたりまえを刷新しました。
自分たちだけが救われるのではなく、
世界のみんなが救われるんだよ、と説いたのです。
異邦人にも優しかった彼だからこそ言えたことばです。
たとえば、彼は数々の奇跡を起こしました。
ただの水を葡萄酒に変えたり、
目の見えない人を見えるようにしたり。
そんなか、異邦人の母が現れて、
病気の自分の娘を癒やしてくれと言います。
イエスは言いました。
「食卓のパンを犬にやるのはよくない」
なにげにひどい言い草ですが、母親はたじろぎもしませんでした。
「主よ、仰せの通りです。しかし、犬も食卓からパンくずはいただきます」
イエスは言いました。
「異邦人よ、あなたの信仰はりっぱだ。あなたの望みがかなうように」
そのとたん、娘の病気が治ったのでした。
こうして、イエスは、異邦人にも教えを伝えることにしたわけですが、
それが当時の人に受け容れられたのには、時代的な背景があります。
古代のギリシャ時代に、アレキサンダー遠征というものがありました。
大帝アレキサンダーが、
世界のアチコチに出向いて国々を征服していったわけですが、
その際、文化の交流が生まれ、人々の認識は
「世界国家」という認識に変化。
有名な「ヘレニズム」 時代に発展していきます。
つまり、自分は一個の国の構成員ではなく、世界市民であるという考え方。
つまり、世界宗教を受け容れる土壌が、
すでに人々の間に生まれていたんです。
その頃までには、ギリシャ時代の影響はかなり薄れ、
古代ローマが覇権を誇っていましたが、
考え方は、おなじようなものでした。
時代が変わるときに、それにふさわしい思想が必要なのは、
日本でも同じです。
第二次大戦当時には、天皇は神さまで、日本は神の国。
戦争に負けるなんてあり得ないことで、
そんなことは考えるだけで震え上がる人たちが大勢でした。
しかしGHQが現れて、
天皇は人間宣言しました。
いま、現代の日本の参戦を言う人は、
極右の人やアニメなど以外では見当たりません。
天皇万歳の思想は刷新されました。
代わりに新しい、
「平和国家日本」という思想が、一般市民に受け容れられています。
さて、その当時のローマの虐げられた人々は、
ローマの神はローマ人を祝福するのだから、
自分はダメなんだと絶望していました。
そんななか、イエスは、そんなことはない、
唯一神を信じる者は、全員救われると言ってくれたんですから、
喜ぶのは当然ですよね。
しかし、ローマ人は、面白くなかった。
戦争に勝って、自分たちは祝福されてる! と思ってたのに、
イエスが、「いや、弱い者こそ祝福されてるし、救いに価する」
なんて言うからです。
支配する側は、支配される側のプライドは削いでおきたい。
支配しやすいから。
ユダヤ教の指導者だって、
自分たちは救われるために何百年も耐え忍んで来たのに、
ほかの異邦人も救われるなんて
納得できない!
って言うことで、目の敵にしました。
そして、ついにローマ人、ユダヤ教指導者の利益が一致して、
イエスは十字架にかかります。
その後も、イエスの教えを守ろうとする人々は、
ローマ人によって迫害されています。
(以下引用)キリスト教徒の殉教が血なまぐさい見世物だったことは、
疑いない。
177年のリヨンでキリスト教徒の一群を死へと追いやった群衆は、
キリスト教徒が拷問にかけられ、鉄の椅子で焼き焦がされ、
雄牛に角で突き上げられ、飢えたライオンに四肢を食いちぎられるのを見て
喝采をおくった。晴れ着に身をつつみ、
社会の秩序に従って円形競技場にいならぶ観客全員が注視するなかで
キリスト教徒にライオンを投げ与えることは、
宗教的少数者に対するローマ多数派の権力を
まざまざと見せつけることと思われたに違いない。……
だが、キリスト教徒自身にとっては、苦痛と死をもたらす殉教は、
決して冷酷な敵に屈した意気消沈すべき敗北ではなかった。
殉教は、むしろ勝利だった。
ローマ人がみずからの社会を誇示し、
おのれの優位を見せつけるために選んだ
まさにその場所で繰り広げられた殉教は、
決然としてローマ人に対抗する意志を知らしめる
劇的な行為にほかならなかった。
C=ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.111-112
どんなものにも過去はありますね。