一神教を信じる宗教3つ

キリスト教の誕生には、ユダヤ教が深く関わっています。

2000年前、ユダヤ人は古代ローマの支配下に入っていました。そしてイエスが現れ、十字架にかけられて死に、復活したことになっています。 つまり一神教のユダヤ教からキリスト教が始まりました。聖書も一部、おなじものを使っています。

 

 

 

その後、中東地方で人々の堕落を憂いたムハンマドが、天使からコーランとキリスト教の教典をもらい、イスラム教をはじめました。

要するに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神を信仰しています。

ここで疑問が起きます。
同じ神を信じているのに、なんで三つも大きな流れの宗教があるの?

答えは簡単です。イエスをどう見るか、そこで対立があるのです。

 

ユダヤ教徒にとっては、イエスはただの人ですし、ムスリムにとっては、神の言葉を預かって広めた預言者ですが、キリスト教にとってはイエスは神の子で、神そのもの。それを信じない人間は、許せない! ということになります。

 

なにを血迷ったことをと、嗤うユダヤ教徒とムスリムたち。しかし考えてみると、ひとつの考え方に凝り固まって対立するのは、現代でもよくある話です。

中国では、自分の領土を広げることが至上命令です。中華と名乗っているからには、遠い昔の唐や随の時代のことも、念頭にあるでしょう。そんな時代は終わったのに、まだこだわってる。ヘタに自分が偉かった時代があったから、その栄光が忘れられないのかな。

 

日本では、高度成長期の理屈を振りまわす上司が、老害だったりします。「団結だ!  根性だ! 働け働け!」それで栄光を掴んできたから、若者にも強要する。

だけど、時代はいまや少子高齢化、働ける人数も減ってきているのです。夜遅くまで働いても、仕事の量は減らない。疲れがたまり、不平が出て来ます。

老人たちは、若者の不満を理解しようともしません。自分たちがうまく出来たんだから、若者だって出来ると信じている。

 

わたしも会社にSEとして勤めていたときに、主婦として仕事があるだろうから、定時で帰すという約束で、スーパーの情報処理部に契約社員として勤めたのでした。ところが上司は、残業しろ、残業しろとうるさい。仕事は根性でこなせ。契約以外の仕事もやれ。働け働け!

わたしは会社と主婦としての仕事の両立が出来ませんでした。スーパーウーマンにはなれませんでした。嫌がらせがはじまり、わたしの心はズタズタになりした。

こうして、一生かかっても治らない病気にかかり、会社を辞めざるをえなくなりました。
弱者を排除して会社は存続し続ける。憎しみがこみ上げてきます。

 

しかし、イエスはこんなふうに言うのです。
「汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」

 

そんなこと、出来るわけありません。そもそも愛したからって、敵からそれが返ってくるでしょうか。わたしはずっと考えていました。

 

イエスの言う意味は、敵と言えども立場を尊重して、言い分を聞いてやろうって事だろうか。そうすれば、敵も自分のことを認めてくれるのだろうか。

 

冷静に考えれば会社では、自分の分を超えた仕事をしようとしたわたしが悪いのかもしれないし、むやみやたらと働かせた会社が悪いのかもしれない。

二十年後のある日、公民館での合唱サークル活動で、賛美歌なんか大嫌いという人と巡り会いました。わたしはこの人のこのセリフを聞いてショックを受けました。賛美歌は、わたしにとって欠かせない日常だったからです。日常を否定されて、平気でいられるでしょうか。

汝の敵を愛せ。

そうか、もしかしたら、この人は、孤独なのかも知れない。ひょっとしてわたしの上司も、孤独だったのかもしれない。

立場を変えてみよう。みんな世界の中でひとりぼっちなんだ。平和はきっと、お互いに愛しあう事から始まる。

たとえ頭がお花畑だと言われても、わたしにとってイエスの言葉は、そんなにも身近なのです。

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