契約、というとみなさん、どんなことを連想しますか?
自動車保険や生命保険などの契約書。
土地や家屋の売買の契約書。
日本が人の領土を侵略しないという国際的な約束事。
もちろん、そういった契約もありますが、口頭による約束事も、契約になります。
「○○時に××で二次会をするから集まってね!」というのも、契約です。
キリスト教では、聖書は神の言葉が書かれた契約書で、信仰による神と人との一対一の契約です。キリスト教がイエスを信じれば救われると説いたのが新約聖書(神との新しい契約)で、それ以前の聖書は旧約聖書(神との古い契約)。イエスがただの人であるユダヤ教では、新約聖書は、正典として扱っていません。
クリスチャンは清く正しく美しい人が多い……なんてことは、ありません。もし、そういう人ばかりだったら、旧約聖書の登場人物はどうなることやら。神を裏切って楽園を追放されたり、殺人事件を起こしたり、裏切りがあったりと盛りだくさんです。清廉潔白な人は、イエス以外は出てこない感じがしますね。
聖書については、矛盾点が多いし書き換えられた部分もある、という指摘も、聖書批判学の人から出て来たものでした。その方のエッセイを読みましたが、聖書学の本の受け売りで、発見がありませんでした。
その人は、細かいことが気になるせいで、信仰を失ってしまった人なのでしょう。こういうとき、わたしはひそかにグリム童話の『金の卵を産むガチョウ』を思い出します。
それは、こんな話でした。
ある農夫婦が、善行のご褒美に、妖精から金の卵を産むガチョウをいただきます。妻は喜び、毎日卵を取っては、町に売りに行きました。夫婦は、あっという間に金持ちになるんですが、あるとき妻は、ふと、疑問に思いました。
――このガチョウ、どうやって金の卵を産むんだろう。仕組みが判れば、もっと卵がゲットできるかも知れない!
ということで、妻は、夫を説得して、ガチョウを解剖しました。ところが、ガチョウの中身は平凡な鳥でした。ガチョウは死んでしまい、せっかく金の卵で儲けていた夫婦は、また貧乏になりました。
聖書って、この、『金の卵を産むガチョウ』に似たところがあります。解剖した結果、せっかく豊かな気持ちになっていたのに、台無しになってしまう……。
わたしの父は、聖書学の本を集めていました。言って見れば、『金の卵を産むガチョウ』を解剖したがる農夫みたいなところがありました。しかし、死が近づくにつれて、それらをすべて売り払ってしまいました。
雑学的アプローチは、キリスト教では余談でしかありません。一生懸命、聖書のこまごまとした部分をあげつらって、ここが矛盾しているあそこがおかしい、というのは、知的な興奮があって楽しいですが、それとイエスを救い主と信じることとは別問題です。
一つ一つ、聖書学的に分析するのも面白いし、裏話的・雑学的アプローチも楽しいんですが、結局、本質的にどうなんだろうとふと、思う自分もいます。
ガチョウが金の卵を産むのなら、それでいいじゃありませんか。
世の中には、理屈では通じない事は山ほどあります。無理が通れば道理が引っ込むということわざもあるくらい、ムリクリを言ってくる人もいますし、だいたい、科学ですべての説明がついてしまったら、人間は暇をもてあましてしまうでしょう。人間がいつ死に、どうやって生きていくのか、迷ったり悩んだりするときにこそ、神の御心を思い巡らせるわけですよ。
聖書が科学的・考古学的に説明がつかないからって、そこに描写されている人間たちに、真実がないとはわたしには思えないわけです。もし、ウソなら、わざわざ殺人事件や財産ぶんどりみたいなことは書かないと思うし。
本のまんま受け売りよりも、わたしは能動的に聖書を読みたいと思っているのです。聖書は、ある程度信用できると考えています。