神道、仏教、キリスト教を俯瞰する

神道、仏教、キリスト教は、ぜんぜん違う宗教です。神道には、日本の民衆と天皇の先祖である神々の物語である古事記・日本書紀が存在します。天照大神とかが出てくるヤツですね。
日本古来の民族宗教なので、仏教が日本に入り込んできたとき、朝廷内で、どっちを選ぶか内乱が起きました。しかし結局、神仏習合ということで、仏さまも神さまもいっしょだよということに落ち着きました。実に日本らしいんですが、明治時代に明治天皇から、神仏分離ということが発せられたのでした(実効性はなかったけど)。
なぜ神仏分離なのか。天皇の先祖はブッダではなく、天照大神だからです。なので、それまで宮島でお経をあげていた千年近い習慣はなくなりました。政治と宗教は身近です。政治に無関心だと、しっぺ返しが来ます。

①神道って、どんな宗教?

わたしの見るところ、穢れと清めがあり、神社のお参りに二礼二拍一礼したりします。神官がいて、巫女がいて……、でも、教義がない。
日本人の習慣にシッカリ根付いていて、たとえば自動車を買えば自動車にお祓いをしてもらったり、お守りを買ったりします。受験が近づけば、太宰府などに受験のお守りを買ったり絵馬をつけたり。えびす様を店に飾る商店や、白い布袋をしょった大黒さまの彫像を飾った宿もあります。ゲンを担がせて貰おうと、稲荷神社におまいりする芸能人もいますね。
このように、日本は現世利益の多神教です。宗教じゃない、という人もいますが、神さまの前に手を合わせるときは、みんな真剣です。わたしは個人的に、神道は宗教だと思ってます。

②仏教の神さま観

帝釈天とか、毘沙門天とか、梵天などは、仏教の神さまです。つまり仏教も多神教。昔の日本人が、仏教を受け容れやすかったのはそのためかも。

③キリスト教は、一神教です。

ヤハウエ神のみを信じる宗教です。ヤハウエとは、ヘブライ語で、「在って在るもの」という意味。ヤハウエ以外はニセモノの神さまということで、それを狂信するあまり、多神教のマヤ文明は、「邪教」となり、スペイン・ポルトガルに滅ぼされてしまいました。
その一方で、ひとつの神を信じているからこそ、ほかの民族も受け容れられるという一面もあります。イギリス人はゲルマン系ですが、ラテン系のフランス人と(本心はどうあれ)同等だと思っています。日本人が外国人を、どことなく畏れていたり、蔑視したりするのは、ジャパニーズが日の本の国の人間で特別な存在なので、それ以外は受け容れがたいと無意識に思っているからかもしれません。

ほかのキリスト教の特徴

愛でしょうか。
たいていの日本人は、結婚式はキリスト教式を選ぶと聞いています。言って見れば日本においては、キリスト教は、ロマンスの神さまってとこかもしれません(熱心なクリスチャンが怒るかも……)
その反対に、仏教は死がつきまといます。法事やお葬式には仏式を選ぶ人は、世の中にはまだまだたくさんあります。ちなみにキリスト教は、お葬式に賛美歌を歌って送り出す教派もありますが、法事はありません。

カウンセラーの起源

カトリック系の聖職者、つまり神父が、信者の悩みや犯した罪を打ち明けること(懺悔)を聞いた歴史から、カウンセラーという仕事がはじまったとも聞いています。マザー・テレサが恵まれない人たち、特に死に直面した人たちのために働いているのを見た人が、「こんなことは行政に任せりゃいいじゃん」と言ったら、彼女は、
「わたしどもは行政の代行サービスをしているのではありません。行政の出来ない愛を実行しているのです」と答えたことも有名です。(また、彼女は、愛の反対は憎悪ではなく、無関心だとも言っています)。
ブッダは、愛は苦しみであると説いています。愛すればこそ、報われない苦しみがある。これはとても対照的な考え方であり、深い人間洞察があると思います。

PS

今月はイスラム教のラマダンです。その詳細を知りたい、という方がおられました。
いろいろ載っているサイトを見つけましたので、
ご紹介いたします。

イスラム教におけるラマダン:危機管理の注意点は?

 

 

 

 

 

仏教とキリスト教

価値観の相違

 

わたしが正人とデートしていた頃、自分はプロテスタントのクリスチャンだと恋人に打ち明けました。すると夫は、「自分は真言宗の仏教徒だよ」と教えてくれました。
そこで話が盛り上がりました。夫はキリスト教にけっこう詳しかったのに、わたしは仏教にはウトかったこともあって、なにもかも面白かったのです。

仏教の教え

 

仏教は、釈迦が始めたことは知っていました。二十九歳のときに出家されています。お城の東の門を出られたときに老人を、南の門から出られたときには病人を、西の門から出られたときにはお葬式、つまり死者を見られます。そして北の門から出られたときに出家し道を求める人に出会われています。それが出家の動機だったといわれています。そこで、
「キリスト教では、神について語ることが多いけど、仏教には創造主っていないでしょう」
「いや、創造主はいるけど、そんなに目立たないね」
夫は平然としています。
キリスト教にとって自分を創ってくださった創造主は大切ですが、仏教徒にとっては違うのです。目が点になりました。

 

仏教とキリスト教を比べてみる

 

 

仏教とキリスト教を比べてみましょう。仏教は、人間の苦しみから人々を救おう、と始まったそうですが、キリスト教は、イエスを信じることで苦しみから救われると説きます。あらゆる苦しみも痛みも、イエスを信じれば軽くなると言うのが主な教理。四苦八苦やら一蓮托生やら因果応報やらいろんな単語を覚える必要ナシ。
ところが、カトリックやプロテスタント、ギリシャ正教ロシア正教に聖公会など、いろんな教派があるわけです。同じ神さまをあがめているのに、なんでこうなるのかは、聖書の解釈によって違ってくるからでした。

 

各教派解釈の違い、ざっくり行きます。

 

 

聖書では、イエスは離婚を禁じたとあるので、カトリックの支配した中世欧州では法律も、離婚できる手続きがなかったし、離婚しようと画策するだけで追放されたり、ヘタしたら殺された時期もありました。
長い支配で堕落したカトリックに抗議(プロテスト)した人々は、プロテスタントと呼ばれています。これは当時、たいへん勇気の要る行動でした。(ガリレオの地動説のお話は、聞いたことがあるでしょう)。しかし、賛同者が次々と現れ、西方キリスト教はカトリックとプロテスタントに別れ、険悪に。二百年以上も経つ一九八〇年代には北アイルランドとイングランドのような宗教戦争もありました。ですが、二〇世紀末に、当時の教皇とプロテスタントの代表が仲直り。末端は納得してないけどね(笑)  ロシアの正教会では、十二使徒の肖像画がありまして、これを「イコン(英語でアイコン)」と呼んでいます。コンピュータ上の小さな絵をアイコンと呼んだりするのは、このことからです。

 

 

仏教徒だって宗教戦争したことがある

 

 

仏教が宗教戦争をしたなんて聞いたことがないぞ、と夫に言ったら、
「たとえば一向宗ってのもある。当時の信長に対抗した浄土真宗の武装僧侶軍団だ」
と教えてくれました。
日常から、ちょっと離れた価値観があるのが、宗教の特徴だとわたしは思います。
とかくこの世は、カネや地位、権力のあるものが勝つと決まっていますが、宗教の世界では、別の価値観がある。権力者には、それが気に入らないのだよ。

 

 

四苦八苦をキリスト教ではどう捉えているか

 

 

愛する人が手に入らない、憎い人と一緒に働かなければならない――といった苦しみを、キリスト教ではどう解決しているか。神がいずれ、自分を救ってくれると信じること。それがひとつの解決法です。キリスト教の根幹である「愛(アガペー)」、それは、イエスが救い主であると信じることから発生するはずなんですが、愛というのはややこしくて、トラブルのもとでもありますね。
仏教では愛は苦しみという解釈を取ってます。ていうか、世の中苦しみだらけというのが仏教だったりします。現実的だな。

 

新約聖書のあれこれ

 新約聖書にはなにが書かれているか

要約:

新約聖書は、大きく分けて三つあり、ひとつ目はイエスの言行と死、復活
二つ目が使徒たちの活躍と書簡、三つ目が黙示録です。
  イエスの言行と死が書かれているのが、いわゆる『福音書』。
順を追って説明します。

詳細:

 福音書内容

①マリア

聖霊により、処女で受胎したマリアさんは、子どものように事実を受け容れ、子どものように信じる心を持っていると言うことで、高く評価されています。いきなり身に覚えが無いのに受胎したと言われたら、ふつうの人はうろたえるんですが、マリアさんはぜんぜんそんなことがなかったんです。
で、臨月を迎えたマリアは、徒歩で約1日かかる距離を移動しています。というのも、当時のローマ皇帝が、『戸籍を作るために住民投票をするから、みんな自分の出身地に帰って登録するように!』って言い出したからです。ヨハネといっしょに故郷のベツレヘムへ帰る途中、マリアは産気づき、馬小屋でイエスを出産します。

 ②バプテスマのヨハネ

バプテスマとは、洗礼という意味です。バプテスマのヨハネというのは、当時その地では有名人でした。彼は、「神の国がもうすぐ来るから、悔い改めなさい」と言って、人々にバプテスマを授けていました。イエスも彼から受洗しています。
わたしたちクリスチャンは、クリスチャンになる洗礼の時に、このバプテスマを受けます。両親がクリスチャンだと、赤ん坊に受けさせます。その際、牧師から、神の言葉として、
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
という、聖書の言葉を読み上げるのです。

 ③イエスの奇蹟

イエスは数々の奇蹟を行いました。最初の奇蹟は、意外にも酒造り。カナという場所で、結婚式に参加したイエス。ところが、大変まずいことに結婚式の途中でワインがなくなってしまいました。当時の結婚式は一週間くらいぶっ続けで宴会を行うものでしたが、その途中で料理やお酒が足りなくなることは、一家の「末代までの恥」だった。そこでイエスは自ら特上のワインを作り、披露宴のホストを助けました。これにより一家は、「末代までの誉れ」になったのです。
イエスはこのほかにも、死人をよみがえらせたり、病人を治したり、パンを増やしたりと、さまざまな奇蹟を行いました。

 ④皆がイエスを裏切った

3年ほど旅を続けて、イエスはイスラエルの首都エルサレムへやってきました。エルサレムには、パリサイ人という「イエスの宿敵」がいました。イエスが折に触れて、
「君たちはわかってない! 君たちは偽善者だ!」とその権威を否定したので、イエスを忌々しく思っていたのです。さらにイエスがだんだん民衆に慕われるようになると、
「あいつめ、おれたちをないがしろにして……」
とほとんど殺意に近い感情を抱くようになっていました。
イエスはエルサレムに入りました。数日後の木曜日に「最後の晩餐」が行われた際、イエスは、「このなかにわたしを裏切るものがいる!」と言いました。そしてその言葉どおり、ユダはイエスを銀貨三〇枚でローマに売り、ほかの弟子たちもローマ兵がやってくると、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。

 

 ⑤復活

こうしてイエスは十字架にかけられ、なくなりました。翌日は土曜日で安息日だったので、お墓参りができなかったんですが、日曜日に弟子の一人だったマグダラのマリアたちが墓を訪れると、イエスの姿がない。すでに復活していたのです。

福音書のあらましは、ざっとこのとおりです。

 

 

 後日談

話はこれで終わらなくて、復活を聞いた弟子たちがあやぶみ、イエスが再来したことから復活を確信して伝道をはじめる話が『使徒行伝』に載ってます。この話の中に出てくるパウロというひとは、苛烈にクリスチャンを迫害していましたが、イエスの幻を見てから心を入れ替えてキリスト教の基礎を作ったのでした。
弟子たちへの迫害は続き、パウロたちも投獄されてしまいます。獄中から手紙を出したのが、「手紙シリーズ」と呼ばれる書簡類で、『神は愛なり』とか、『神は乗り越えられない試練は与えない』といった言葉が載っています。

黙示録

これまでは、イエスとその死、そしてその直後の人々の話だったんですが、新約聖書の最後には黙示録(この世の終わりと最後の審判の話が中心)という、未来を暗示させる記述が載っています。ハルマゲドンという言葉は、この黙示録から出ました。。この記述の中に、福島の原発事故を暗示させる記事が載っているという人もいます。

 

 

キリストが生まれるまで

前文

聖書には『旧約聖書』と『新約聖書』があることは知っておられる方も多いと思います。 そのうち『旧約』のほうは、ユダヤ教の神話、歴史書、予言、詩などがおさめられています。その中で、イエス・キリストに関係のあるものをピックアップしていきましょう。

アダムとイブは、名前だけはご存じな方もおられるでしょう。アダムは人間の祖ということになっています。そのあと、ノアの方舟で洪水が起こり、人類はノア以外は全滅。だから人類はノアの子孫だとも言えます。

では、ユダヤの祖はだれなのか。ユダヤ人の民族的神がなぜヤハウエなのか。

ユダヤと旧約の起源

ノアの時代より前に、アブラハムという人がいました。このアブラハムが、神と契約したからなんですね。
神はアブラハムを試すために、一人息子のイサクを犠牲に捧げよと命じたんです。
通常、丘の上の祭壇で羊を焼くのが神へのお供えなのですが、その子羊の代わりにイサクを捧げよ、というのが神の命令だったんです。
で、仕方がないので、アブラハムはイサクを連れて丘の上へ登っていく。イサクは頭のいい子なので、父が子羊を連れていないのを見て、「犠牲の子羊はどこですか」などと聞いたりするんです。

アブラハムは幼子のイサクを祭壇に載せました。たき木をセットして、いま、まさに火をつけようとした瞬間に、神の声が聞こえる。待て、という声ですね。
アブラハムの信仰心、忠誠心を試して満足した神は、契約を結ぶんです。
我が子イサクを犠牲にしようとしたアブラハムの信仰心を認めて、神はユダヤ人の繁栄を約束する。これが、『旧い約束』、『旧約』ってことです。

 

その後のユダヤの繁栄ーダビデ登場

 

この神とアブラハムの契約を出発点として、アブラハムの子孫たちの繁栄が始まります。
イサクの子、アブラハムから見ると孫にあたるヤコブは、神さまからイスラエルという名前をもらいます。そのイスラエルの十二人の子ども達から、十二部族が興る。ユダヤ人は、その十二部族から出ました。

その後、モーセによる出エジプトの民族大移動、エリコの戦いなど、色んな事が起こりまして、十二部族がバラバラになり、周辺のペリシテ(ペルシャ)人などに負けるようになってきた。

バラバラになった十二部族をまとめるには、力と人徳を持った人物が必要だというわけで、サムエルという預言者が神さまにお伺いをたてると、ベツレヘムへ行けと言われる。

そこで行ってみると、ダビデという美少年がいた。しかしこのダビデ、まだ子どもなんですね。

ところがこのダビデは、石投げの名人でした。ペリシテの大将、巨人のゴリアテを石ころひとつで倒してしまう。それで十二部族が結束して、ユダヤ王国を築くことになります。

そしてダビデは、サムエルに香油で頭を清められて王になることを祝福されます。

 

このように、力ではなく神によって王になった人のことを、ヘブライ語で「メシア」と呼びます。キリストというのは、ギリシャ語の「メシア」にあたる「クリストス」から来た言葉です。ちなみに新約聖書は、全編ギリシャ語(コイネー語)で書かれています。

ユダヤの没落とメシア待望

さて、ダビデ、およびその息子のソロモンの頃に絶頂を迎えたユダヤ王国ですが、やがて北側がイスラエルという国になり、たちまちアッシリアに侵略される。南側のユダヤ王国も、バビロニアに滅ぼされてしまう。

その後、長い間ユダヤ人たちは、バビロニアで奴隷として苦難の日々を送ることになります。バビロン捕囚と呼ばれるこの時期に、ユダヤ教は確立しました。民衆は、いずれダビデのような英雄がやってきて、この苦難を救ってくれると、はかない希望を抱きましたが、それは実現しにくい夢でした。

そこで、旧約聖書の『イザヤ書』に出てくる、悲劇のヒーローというモチーフが民衆の間で流布するようになりました。この悲劇のヒーローは、世間から誤解され、鞭打たれ、ひっそりと死んでいく。しかしそのことによって世界を救うのです。

つまり、ダビデの再来が期待できなくなったので、アブラハムの息子イサク、すなわち犠牲の子羊が現れて、神との契約を結び直すという考え方ですね。

イエス・キリストは、そのモチーフを実現した人だったのです。イエスが十字架に架かることによって、新たな契約が結ばれた。だから、『新約』というのですね。しかもこれは、ユダヤ人だけでなく、罪ある人も罪なき人も同じように、全人類が救われるという契約だったのです。