クリスマス・バレンタイン・ハロウイン

クリスマスについて

イエスが生れた日を祝うのがクリスマスです。クリスマスの意味は、
クリストス(キリストつまりイエス)のマス(礼拝)と言う意味で、
つまりこの日は簡単に言うと、祈りの日で、
基本的には静かな場所で心しずかに祈るものですから、
「クリスマスがロマンチックでなきゃヤダ」っとか、
「クリスマスは楽しまなくちゃ!」って強迫概念にかられる必要はありません。
そもそもイエスが生まれたのは真っ暗闇の馬小屋のなかで、
しかも飼い葉桶のなかに寝かされていたんです。キラキラとは無縁なんですよね。

世間のことは、わたしはよく知りませんが、
少なくともわたしの周りでは、
クリスマスで特別なことをしている人はいないと思います。
ふつーに仕事をし、ふつーに食事をし、ふつーに寝る。
日本ではクリスマスが平日の事が多いため、
仕事(残業など)で教会には行けませんってクリスチャンも、いたりするようです。

もちろんクリスマスの夜になれば、教会によっては、
キャンドルサービスやって讃美歌うたって
なんていうロマンチックなこともするところもありますが、
参加できない人だっているんです。

SNSでキラキラ派手な投稿があったり、
テレビで放送されたりするので、「みんなやってるんだ!」
ってアセるひともいるんでしょうが、そういう人は少数派だから
目立つんだろうと思います。みんながやってるんだったら、
それは「当たり前」なので、わざわざ投稿や放送はしない
でしょうからね。さびしいとかわびしいとか気にする必要は
ないと思います。ふつーにしていればいいんです。ふつーがいちばんです。

バレンタインデーについて

バレンタインっていうのは古代ローマ時代のキリスト教の司祭の名前です。
その人がいろんな人を結婚させようと頑張ってくれたことに感謝して、
2月14日はバレンタインさんの日になったんだそうです。

だから、バレンタインデーは、
『みんなが好きな人といっしょにいられますように』
っていうお願いが込められた日なのでした。
そして、みんなの家族や好きなお友達にチョコレートを渡して、
いつもありがとうって伝えるんです

どうしてバレンタインにチョコをあげるのかというと、
チョコレートは甘くておいしいですよね。
だから、自分の好きな人においしいチョコレートをプレゼントして、
気持ちを伝えるようになったんだそうですよ。

まあ、深く突っ込んだ話は、こちらではしないことにします。
ネット検索すれば、いくらでも出てくるんですし。

ただ、外国では愛の品物を贈り合う習慣があるのに、
チョコを贈るのは日本独自、しかも義理チョコまであるのは日本だけ、
その上義理チョコは、2023年の名古屋の百貨店調べでは、全体の3%しかないって話は、たぶんネットに載ってないと思いますので、書いておきますね。

ハロウインについて

 

ハロウインですが、これはキリスト教由来のお祭りではありません。
だいの大人が騒いで迷惑だ、これだからキリスト教は……
と怒られる人もおられるそうですが、
誤解です。
元々ハロウィンは、10月31日に行われたアイルランドに伝わる
「サーウィン」という古代ケルト人のお祭りでした。
ケルト人にとって10月31日は一年の終わりにあたります。
この日は先祖の霊がこの世に戻ってくるとされ、この世に戻ってくる先祖の霊を供養し、
現世の悪霊を追い出すための行事だったと言われています。要は「お盆」ですね。

キリスト教では、死者の魂が帰ってくるとか、先祖の霊を祀るという習慣はありません。
礼拝する対象はあくまでも三位一体の神さまです。
そのため、江戸時代に布教をしようとした宣教師たちは、
「先祖は救われないんだ」と民衆に理解され、
先祖を大切にする人からは、
そっぽを向かれた話も伝わっています(滝汗)

それはともかく、ハロウインで仮装するのは、
ヨーロッパやアメリカでは子どもだけなんですね。
これは、日本に置き換えるとわかりやすいかもしれません。

五月の子どもの日に、
子どもに鎧甲の仮装をさせて記念写真を撮ることは時々ありますが、
大人がそれに便乗して鎧甲の仮装をして大騒ぎはしないですよね。
アレと同じです。

楽しむのは自由です。いちいち目くじら立てて頭ごなしに、
否定するのもヤボですし、もったいない。
みなさん節度を守って、イベントを楽しんでいただければと思います。

福音書ってなに? ロシアの宗教って?

新約聖書には、四つの福音書があります。福音書とは、神による救いという喜びの訪れを告げる書物という意味で、マタイによるもの、マルコによるもの、ルカによるもの、ヨハネによるもの。それぞれイエスの弟子の名前ですが、別の人(著者不明)が書いています。古代ローマでは教育水準も低く、読み書きできる人は少なかったからです。
マタイ(英語ではマシュー)、マルコ(マーク)、ルカ(ルーク)は、共観福音書と言って、おなじイエス語録をもとに書かれたと言われています。
マルコは一番イエス語録に近く、最も短い福音書で、そのうちの約90%の内容がマタイの福音書かルカの福音書にも出てきます(共観福音書とは共通の観点からの福音書って意味)。
一見同じような内容に見えるかもしれませんが、マタイが主にユダヤ人読者に宛てて書いたのに対し、マルコはローマの、特に異邦人と呼ばれる外国人のキリスト者たちに宛てて書いているので、マタイとは違った雰囲気があります。またルカは異邦人に向けて書かれたので、日本人にも一番なじみやすい内容です。
語録が残っていないのは、それを書いたのがイスカリオテのユダだったからだ、とする人がいます。当時弟子の中で読み書きが出来たのは、会計係のユダだけでした。文章で残さないイエスに密着、メモしたのかな。
さらに余談ですが、ルカはイエスの死後、弟子になった医者の名です。

さて、ヨハネ(ジョン)による福音書の大きな特徴は、共観福音書のように年代順にイエスの生涯を紹介することはなく、イエスが「神の子」であることを強調しているためもっとも神学的な内容になっていることです。要するに、一般向けというこの福音書の建前とはちょっと違う。

なぜこうなったかというと、このヨハネの福音書が書かれた当時、イエスが神の子であるかどうか疑問視する人がいて、それを論破するために書かれたわけです。
ロシアは、この神学的なヨハネの福音書を、自国の教会に採用しています。
なぜそうなのか。わたしのおぼろげな記憶によると、ギリシャ正教の後継者を自認していた昔のロシアの皇帝が、自分の民が救いを求めていることに心を痛め、ヨハネの福音書を使ってイエスを信じるように計らったのでした(昔読んだ本だから記憶違いがあるかも知れない)。

そこで西洋&ロシアの歴史をざっとおさらいすると、古代ローマ帝国でイエスが誕生して死に、その後、古代ローマ帝国は三世紀ごろに東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂。
そして東ローマ帝国は八世紀ぐらいにローマ教皇と対立。その一部地域は、ギリシャ人の国と呼ばれるようになり、やがてロシアがその継承者を自称するようになります。
わたしの推測ですが、ギリシャ文字がロシア文字キリルと似ているのは、日本に漢字があるのと似ているかもしれません。

聖書の出来た古代ローマ時代に焦点を絞ると、それは大きな領土を持った軍事国家でした。そのなかで、キリスト教をいちばん信仰したのは、虐げられた売春婦や税取り立て人、奴隷たちでした。
聖書をひもとくと、奴隷に関する翻訳者の苦労がしのばれます。新約聖書は当時の共通言語、コイネー語で書かれているからです。

これは、いまの世界の共通語が英語だというのと同じです。外国人の多い地域にいた当時の信者たち、とくに聖書を書いた人は、当時の一般共通言語としてコイネー語を使ったわけですが、それも廃れてしまって、今はだれも話す人はいません(最近は、AIによる翻訳機が発達しているようです。英語の英才教育より日本の言語教育を大事にしましょう)。
コイネー語は難しい言語なので、奴隷は解放されるチャンスがあってもそのままでいろ、という聖書もあれば、奴隷は解放されるべき、という聖書もあったりします。

そんなわけで聖書の理解の助けになるのは、文章と牧師の解釈だけです。だからよくわからない点があると、わたしは思ってます。天地創造にしたって同じような話が最低二回は語られていて、
「神さん、あんた何回、天地創造やりなおしたの?」
なんて思う人もいたりします。太陽より前に光が創られているのは矛盾だという指摘も、『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)にありました。聖書をまともに神の言葉で絶対に疑うことはない、と主張するのは、そりゃあその人の勝手でしょうが、マジに言われるとドン引きしてしまいたくなります。

やってはいけない! キリスト教の禁忌事項

一部のカルトの言行のために、キリスト教徒というのは輸血を拒否する集団だ、という認識が広がってしまいましたが、結論から言うと、それは間違いです。
ニュースなどで、カルトさんのことを「キリスト教の一派だ」って言ってるけど、聖書も別な訳のを使っています。
カルトである彼らに言わせれば、旧約聖書に血を食べてはいけないと書いてある、輸血も血を食べることになるからダメなんだ、らしいんですが、イエスはこう言いました。
「口から入ったものではなく、口から出たものが人を汚すのである」
要するに、人のことばです。悪口とか、陰口とか、人を傷つけることば。そういうことばが人を汚すというわけ。

われわれクリスチャンは、旧約聖書も新約聖書もセットで信じていますが、イエスのこのことばによって、いまは禁じられた食べものはない、という解釈をしています。
ちなみに旧約聖書を正典とするユダヤ人の禁止事項として、以前にも言いましたが、昆虫やウロコのついた魚などを食べてはいけないことになっています。今でもこの禁止事項を守っているユダヤ人もいますが、そうじゃない人もいます。

どんなことがキリスト教徒の逆鱗に触れるかは、人によって違います。
進化論を教えないアメリカのある州は、ダーウィンの名前を出しただけで、激怒するかもしれません。
その州では、進化論には決定的なムリがある、という考え方をしています。なぜなら、偶然や自然淘汰によってこれだけ整然とした生態系ができるなんて、信じられないしあり得ないというわけですね。

自然淘汰を極限まで認めるなら、たとえばライオンはシマウマを絶滅させていただろう。だが、シマウマは絶滅していない。ライオンは満腹になったら狩りをやめるからです。でも人間はどうか? そういう本能は、なぜ失われたのか? 人間だけが大事な本能が失われるのは自然淘汰の理論からしておかしい、……と言われるのですよ。それはそれで説得力がある。

そんな州では、きっと地球年齢も45億年ではなく、8千年ぐらいなもののはず(聖書の記述を正確に辿れば、それぐらいの年齢になる)。

科学がクルクル定説をくつがえして、そのたびに教科書などを変えたりしなきゃならない事実があるわけで、安定した考え方が児童には必要、というスタンスなのだと考えれば、それもまた、説得力があります(わたしがそれに同調するかどうかは別問題ですが)。

 

わたしのように左派のクリスチャンでも、軽々しく「神」ということばが、テレビのバラエティ番組やラノベ原作のアニメの会話の中に出てくると、
「神に対して不遜じゃないか」
とムカつくこともあります。

神さまは、自分の思いどおりに動く存在ではありません。たとえば、神さまに恋愛成就のお願いをするならば、それは神さまに対して、
「成就させろ!」
と命令させているのだとキリスト教では考えます。そんな不遜なことは、考えただけでゾっとします。

しかし、ある人を神だと称する傾向は、テレビなどに顕著のようです。
日本人にとって神というのは、そんなにも身近な存在なのでしょうし、ちょっと不安になったときに寄り添ってくれる、「となりのトトロ」的な友好関係を結んでいるのかも知れませんが、

わたしには「となりのトトロ」は(昭和臭くて面白いけど)しょせん精霊とか妖怪レベルの存在でしかありません。登場人物たちが、森を守る大木に祈ったから、トトロという神が出て来たという設定なのでしょうが、神はそんなに都合よく現れたり消えたりしないと思ってます。

自然をだいじにしよう、そこに神がいるというのが宮崎駿のメッセージなのかもしれません。自然と対決してきた西洋の価値観とは違う価値観だなと思います。
西洋の価値観のために、水俣病など日本も大分苦労し、そこから変化しましたが、神意識についてもそれなりの変化があるとわたしは見ています。
その根拠は、ことわざにあります。

昔の人は言いました。
「触らぬ神に祟りなし」
神は祟るもので、親しみを感じるものではなかったのです。
日本の神意識が変化したのは、あきらかに宮崎駿のせいだろうとにらんでいます。
逆に言うなら、アニメやバラエティをおさえておけば、日本人の意識は変えられると言うことになるんでしょうか。みなさんは、どう思われますか?


 

 

キリスト教が世界宗教になったわけ

イエス・キリストは、れっきとしたユダヤ教徒でした。
つまり、救われるのは自分たちだけ、という民族宗教の出身。
ところが、彼は、ユダヤ教のあたりまえを刷新しました。
自分たちだけが救われるのではなく、
世界のみんなが救われるんだよ、と説いたのです。
異邦人にも優しかった彼だからこそ言えたことばです。

たとえば、彼は数々の奇跡を起こしました。
ただの水を葡萄酒に変えたり、
目の見えない人を見えるようにしたり。
そんなか、異邦人の母が現れて、
病気の自分の娘を癒やしてくれと言います。

イエスは言いました。
「食卓のパンを犬にやるのはよくない」
なにげにひどい言い草ですが、母親はたじろぎもしませんでした。
「主よ、仰せの通りです。しかし、犬も食卓からパンくずはいただきます」
イエスは言いました。
「異邦人よ、あなたの信仰はりっぱだ。あなたの望みがかなうように」
そのとたん、娘の病気が治ったのでした。

こうして、イエスは、異邦人にも教えを伝えることにしたわけですが、
それが当時の人に受け容れられたのには、時代的な背景があります。

古代のギリシャ時代に、アレキサンダー遠征というものがありました。
大帝アレキサンダーが、
世界のアチコチに出向いて国々を征服していったわけですが、
その際、文化の交流が生まれ、人々の認識は
「世界国家」という認識に変化。
有名な「ヘレニズム」 時代に発展していきます。
つまり、自分は一個の国の構成員ではなく、世界市民であるという考え方。

つまり、世界宗教を受け容れる土壌が、
すでに人々の間に生まれていたんです。
その頃までには、ギリシャ時代の影響はかなり薄れ、
古代ローマが覇権を誇っていましたが、
考え方は、おなじようなものでした。

時代が変わるときに、それにふさわしい思想が必要なのは、
日本でも同じです。
第二次大戦当時には、天皇は神さまで、日本は神の国。
戦争に負けるなんてあり得ないことで、
そんなことは考えるだけで震え上がる人たちが大勢でした。
しかしGHQが現れて、
天皇は人間宣言しました。

いま、現代の日本の参戦を言う人は、
極右の人やアニメなど以外では見当たりません。
天皇万歳の思想は刷新されました。
代わりに新しい、
「平和国家日本」という思想が、一般市民に受け容れられています。

さて、その当時のローマの虐げられた人々は、
ローマの神はローマ人を祝福するのだから、
自分はダメなんだと絶望していました。

そんななか、イエスは、そんなことはない、
唯一神を信じる者は、全員救われると言ってくれたんですから、
喜ぶのは当然ですよね。

しかし、ローマ人は、面白くなかった。
戦争に勝って、自分たちは祝福されてる! と思ってたのに、
イエスが、「いや、弱い者こそ祝福されてるし、救いに価する」
なんて言うからです。
支配する側は、支配される側のプライドは削いでおきたい。
支配しやすいから。

ユダヤ教の指導者だって、
自分たちは救われるために何百年も耐え忍んで来たのに、
ほかの異邦人も救われるなんて
納得できない!
って言うことで、目の敵にしました。

そして、ついにローマ人、ユダヤ教指導者の利益が一致して、
イエスは十字架にかかります。
その後も、イエスの教えを守ろうとする人々は、
ローマ人によって迫害されています。

(以下引用)キリスト教徒の殉教が血なまぐさい見世物だったことは、
疑いない。
177年のリヨンでキリスト教徒の一群を死へと追いやった群衆は、
キリスト教徒が拷問にかけられ、鉄の椅子で焼き焦がされ、
雄牛に角で突き上げられ、飢えたライオンに四肢を食いちぎられるのを見て
喝采をおくった。晴れ着に身をつつみ、
社会の秩序に従って円形競技場にいならぶ観客全員が注視するなかで
キリスト教徒にライオンを投げ与えることは、
宗教的少数者に対するローマ多数派の権力を
まざまざと見せつけることと思われたに違いない。……
だが、キリスト教徒自身にとっては、苦痛と死をもたらす殉教は、
決して冷酷な敵に屈した意気消沈すべき敗北ではなかった。
殉教は、むしろ勝利だった。
ローマ人がみずからの社会を誇示し、
おのれの優位を見せつけるために選んだ
まさにその場所で繰り広げられた殉教は、
決然としてローマ人に対抗する意志を知らしめる
劇的な行為にほかならなかった。
C=ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.111-112

どんなものにも過去はありますね。