キリスト教の由来と日本の宗教

キリスト教は、なにもないところからドカーンと生まれたわけではなく、
ユダヤ教というベース(母体)があります。

 

ユダヤ教は、ユダヤ人の民族宗教として生まれました。
有力な説によると、その起源は1300年前にまでさかのぼるそうです。
しかし、ユダヤ教として
確固たるアイデンティティーを持つようになったのは、
紀元前593年から538年のバビロン捕囚のころだと言われています。

 

旧約聖書には、ユダヤ的な歴史と決まり事(律法)が書かれていて、
これを守るひとは祝福され、守らない人は呪われるとされていました。
また旧約聖書時代には、ほかの民族の民が、ユダヤ教に対して
「あなたの神は偉大だ」とひれ伏したり
「どっちの神がホンモノか試そう」という話がありました。

 

つまり、神が居るのは当然で、
どの神が強いか、どの神を信じるか、が問題になっていたんですね。
このあたり、毘沙門天が大黒さまより戦さに強かったり、
帝釈天が恵比寿さまより商売にウトかったりするので
どれを選ぶか迷うのと似ているかもしれません。

 

日本人は、それぞれの神さまに特徴を見て、
それぞれの専門分野にお願いに上がります。
最近の日本人は、どの神社がどんな神さまを祀ってるのか
さっぱり分かんないけど、
とにかく拝んでおけばなんとかなるだろう、
みたいなところもあります。

 

年始や受験、車の購入など、
人生の節目に神社のお世話になりますが
そこに「神」がいるのが大前提です。
そして神さまたちは、おたがいに強さを競い合ったりはしませんし
ニセモノとかホンモノとか、どの神を信じるとかで争ったりはしません。
ここが、日本の神さまと外国の神さまの違いですね。

 

 

わたしの知りあいは、MAROさんの聖書の入門書を読んで、
日本の神話みたいに神さまがいっぱいでている、
と勘違いしていましたが、
聖書の中の登場人物は、イエスと、主なる神、聖霊以外は神ではありません。
日本の神さまが人間くさくて身近なので、
聖書も神さまが多数いるんだと思っちゃダメですよ。

 

 

ともかく、日本ではゆるい感じで神さまたちはまだ生きています。
ユダヤ教の特徴は、その神さまたちのなかでも、
「自分たちの神だけが唯一絶対で、他の神は信じない」ということ。
そこから偶像崇拝禁止が生まれました。

 

 

どんな立派な像をつくってもそれは「物体」でしかなく、その中には魂がない。
ただの物体を拝んでも、神を拝んだことにはならない、というのが
ユダヤ教の主張です。

 

 

ですが神が唯一なら、多神教なんてそもそも存在するはずはありません。
旧約聖書の神こそが、世界共通の神であるはずですが
ユダヤ教の人々(イスラエル人)たちは、
「イスラエル人の自分たちこそが、特別に神さまから愛されているんだ。
だから、唯一神は、やっぱり自分たちの神だ」
と思っていました。

 

 

つまり当時の当たり前としては、一神教も、民族宗教だったのです。
だから、民族宗教特有の特徴や禁止事項もいろいろありました。
旧約聖書には、
男子は、割礼といって、包皮を幼いうちから切る習慣があります。
ユダヤ教徒は、うろこのついた魚やたこ、えび
ひづめのついた動物などは食べちゃダメ。
「ラクダ」「ウサギ」「ほとんどの昆虫類」
「肉食動物」「一部の鳥 類(猛禽類、ダチョウ、カラスなど)」など、
様々なものを食べることも禁じられています。
お酒もダメ。

 

 

ちなみに古代エジプトも多神教でしたが
一時期、なにを血迷ったのか
ファラオが一神教に走ったことがありました(ユダヤ教ではありません)。
異教の教えを信じると言うことで、暗殺されちゃったと聞いてますが
どうなんでしょうねえ。

 

 

そんなわけで、今から約2000年前までの世界においては、
民族宗教が一般的でした。
そんなふつーのユダヤ教から、世界宗教であるキリスト教が生まれたのはなぜでしょう?
なにか、特別なわけがあるのでしょうか。
それについては、次回以降、ゆるい感じでお話しします。

 

 

 

 

キリスト教ってなんなんだ

さて、いままで自明の理として、キリスト教の定義を
放置したまま話を続けてきたわけですが、
ここで改めて「キリスト教ってなんだ?」
ということについて、お話しします。

キリスト教は、ユダヤ教・イスラム教とならぶ一神教です。
神さまはひとりしかいません。

ほかの神さまはニセモノということになっています。
同じキリスト教にもいろんな教派があって、それぞれ、主張が違いますが、
おおざっぱに言って、キリスト教の共通項として、

「父」
「子」
「聖霊」
を等しく神として礼拝や讃美の対象としています。

これを「三位一体」と呼んでいます。

子なる神
まずは「キリスト教」の名の由来になった子なる神、
イエス・キリストについて。
キリストとは救い主、という意味です。歴史上実在した人物です。
ラテン語では「キリエ」、ヘブライ語では「メシア」と呼んでいます。
イエスは人間であり、神。十字架にかかって死に、三日目に復活した、というのがキリスト教のキリスト教たるゆえん。

父なる神
子がいるなら親もいるというわけで、父なる神という概念も、キリスト教にはあります。
唯一で、万物の創造主で、全知全能で、人格がある(人間と同じように喜怒哀楽がある)という特徴があります。
概念としてではなく、ほんとうにいるというのが、キリスト教の教えです。

聖霊
「父と子と聖霊の名において」という洋ドラや洋画がありますが、
ファンタジーアニメなんかに出てくる「火の精霊」とかいったものではありません。
神の霊で、原則として目に見えません。「父」と「子」と同じように、この聖霊も神そのものです。

わたしたちに直接かたりかけ、わたしたちの人格に触れ、
わたしたちに力を与え、救いへと導いてくださる方です。

 

これらの概念は、キリスト教においてはもっとも大切な概念のひとつです。
ひとつだけど三つ! 三つだけどひとつ! ということですかね。
これを詳しくいうのは、わたしの手には余ります。
わたしははぐれクリスチャンですから、本筋から逸れていたりすることも多々あります。
三位一体については、基本的に異論はありませんが、もちろん、これを批判する意見もあります。

 

イスラム教などは、三つも神の概念があるなんて、多神教と同じじゃないか、と批判します。
ムスリムにとって、イエスは神の子でもなんでもないただの預言者です。
預言者とは、神の言葉を預かって広めた人間のことで、現実の民衆を批判したり、はげましたりする指導者でもありました。
ムスリムは、アラーこそが絶対者で、それ以外は認めません。

三位一体は、多神教なのかもしれません。
聖書をよく読めば、聖霊ということばが出て来たのは、新約聖書からだということが見えてきます。

イエス・キリストが別格なのはもちろんですが、神は三位一体だけの存在なのでしょうか。
昔の人は、認識力が乏しかったので、神のおおきな存在を、捉えることが
出来なかったかもしれません。

 

なのでわたしは、三位一体説を押し広げて、神をアメーバみたいなものだと考えるのです。
ある部分をとりあげれば、子なる神イエス・キリスト。
ある部分を見れば、聖霊。
別な部分だったら、もしかしたら大黒さまや、恵比寿さまだったりするかもしれません。

 

この考え方は、夫の影響もあります。
夫は真言宗で、大日如来について、いろいろ教えてくれました。
大日如来は、さまざまな仏の姿になることが出来るそうです。
夫によると、
神は、縦から見た姿
横から見た姿
斜めから見た姿
さまざまな姿があり、
それぞれの宗教が、自分が正しいと主張しているだけだ、
というのです。

 

異論はあろうかと思いますが
わたしにとって神は、アメーバみたいで、神社はアメーバみたいな神にアクセスするための便宜上の施設です。
末端がどれほど違っていても
トップは神さまということですね。
まあ、日本で暮らしてるクリスチャンだから
純粋さはなくなるよね、というお話です。

 

宗教におけるタブーな言葉

わたしは左翼系のクリスチャンなので、たいていの日本人の無知には
おおらかに許している面がありますが、
アメリカの中西部(テキサスなど)にいる右翼系クリスチャンだったら、
わたしの考えている神の概念だったり、
イエスを友だちと呼んだりすること自体、
「冒涜(ぼうとく)だ」と反発、攻撃するかも知れません。

こんなわたしでも、たとえばイエスのことを
「弱虫だ、つまらん」
と批判されたら怒ります。
だから、芥川龍之介の「おしの」という作品で
主人公がイエスのことをけちょんけちょんにやっつけてるのを見て
芥川が大嫌いになりました(滝汗)

それに、「信仰上の理由で対立するなんて」という人には
大切なものが違うという事実に傷つきました。

そんなふうに、宗教の話題は炎上するのが必至なので、
公の場ではしないことになっているはずですが、
右翼系クリスチャンなどは無自覚に、
クリスマスになるとチャットで「メリークリスマス」と挨拶を交すようです。
これは、ムスリムにとってはタブーな言葉です。

というのもムスリムにとって大事なのは、イエスじゃなくてアラー(神という意味)。
そもそもクリスマスには、キリスト(クリスト)を祝うミサ(マス)という意味があるのです。
つまりムスリムにとってはイエスは神の言葉を預かって広めたただの人(預言者)なので、クリスマスを祝うのはキリスト教の押しつけになるのです。

また、サイレント・メジャーな国インドは
多神教(ヒンドゥー)なので、イエスは眼中にない。
仏教も、そうですよね。(あまりうるさくは言わないけど)。
そういう理由で、アメリカでも多民族な地方(カリフォルニアなど)では、
メリークリスマスと言う代わりに、
ハッピーホリデー、と呼んでいるようです。
自分の文化より、共存の道を選択したわけ。偉い。

所変われば品変わる。
場所どころか時代によって変化したアメリカの言葉もあります。
「なんてこった! (Oh My God!)」は、50年代アメリカでは、
「Oh My…」
で絶句するのが常でした。
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のワンシーンで
ドク・ブラウンが叫ぶところの
“Great Scott!”
は、Oh My Godの遠回しな表現です(聖書曰く、主の名をみだりに唱えるべからず)。
God ではなく Scott なのは、音が似ているからです。

ところが60年代頃からからアメリカもだんだん、世俗化しました。
70年代に流行った”Love and Peace”運動により
キリスト教的な価値観が揺るがされてしまったのです。
これには、その当時敗戦の色濃かったベトナム戦争も、関係があったかも知れません。

キリスト教が絶対的な価値観を持っていた時代があったのはたしかです。
その影響で、いまだにキリスト教的な文化を無自覚に持っている人たちも、
西洋人のなかには多いでしょう。

これは、「あたりまえ」の感覚が違うってことです。
日本では、食前に手を合わせ、
「いただきます」と、命をいただくことを感謝するのですが
西洋では、食前に手を組み合わせ、
「主よ、今日の恵みに感謝します」
と神さまにお礼を言うのが文化的にまだあるはずです。
命をいただくのを、食べものに感謝するのが日本人ですが、
西洋では、神から食べものを賜るというのが感覚的にある。

なので、キリスト教系右派の家に留学に行った人が
食前に手を合わせて「いただきます」をしたら
「おまえの宗教を押しつけるのか」
と大問題になった話をしてくれたときは、
さもありなんと深く納得しました。

多民族とどう生きるのか。
今後の日本は、多様化の時代だと言われています。物理的にも、海外から多くの人が入ってくる。いろんな文化がやって来ます。触らぬ神に祟りなしと、知らん顔をするより、知るは楽しみなりと好奇心を持って人に接することは、とても大切なことだと考えます。
それは、自分なりの人生をどう生きるか、ということなのです。

 

一神教を信じる宗教3つ

キリスト教の誕生には、ユダヤ教が深く関わっています。

2000年前、ユダヤ人は古代ローマの支配下に入っていました。そしてイエスが現れ、十字架にかけられて死に、復活したことになっています。 つまり一神教のユダヤ教からキリスト教が始まりました。聖書も一部、おなじものを使っています。

 

 

 

その後、中東地方で人々の堕落を憂いたムハンマドが、天使からコーランとキリスト教の教典をもらい、イスラム教をはじめました。

要するに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神を信仰しています。

ここで疑問が起きます。
同じ神を信じているのに、なんで三つも大きな流れの宗教があるの?

答えは簡単です。イエスをどう見るか、そこで対立があるのです。

 

ユダヤ教徒にとっては、イエスはただの人ですし、ムスリムにとっては、神の言葉を預かって広めた預言者ですが、キリスト教にとってはイエスは神の子で、神そのもの。それを信じない人間は、許せない! ということになります。

 

なにを血迷ったことをと、嗤うユダヤ教徒とムスリムたち。しかし考えてみると、ひとつの考え方に凝り固まって対立するのは、現代でもよくある話です。

中国では、自分の領土を広げることが至上命令です。中華と名乗っているからには、遠い昔の唐や随の時代のことも、念頭にあるでしょう。そんな時代は終わったのに、まだこだわってる。ヘタに自分が偉かった時代があったから、その栄光が忘れられないのかな。

 

日本では、高度成長期の理屈を振りまわす上司が、老害だったりします。「団結だ!  根性だ! 働け働け!」それで栄光を掴んできたから、若者にも強要する。

だけど、時代はいまや少子高齢化、働ける人数も減ってきているのです。夜遅くまで働いても、仕事の量は減らない。疲れがたまり、不平が出て来ます。

老人たちは、若者の不満を理解しようともしません。自分たちがうまく出来たんだから、若者だって出来ると信じている。

 

わたしも会社にSEとして勤めていたときに、主婦として仕事があるだろうから、定時で帰すという約束で、スーパーの情報処理部に契約社員として勤めたのでした。ところが上司は、残業しろ、残業しろとうるさい。仕事は根性でこなせ。契約以外の仕事もやれ。働け働け!

わたしは会社と主婦としての仕事の両立が出来ませんでした。スーパーウーマンにはなれませんでした。嫌がらせがはじまり、わたしの心はズタズタになりした。

こうして、一生かかっても治らない病気にかかり、会社を辞めざるをえなくなりました。
弱者を排除して会社は存続し続ける。憎しみがこみ上げてきます。

 

しかし、イエスはこんなふうに言うのです。
「汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」

 

そんなこと、出来るわけありません。そもそも愛したからって、敵からそれが返ってくるでしょうか。わたしはずっと考えていました。

 

イエスの言う意味は、敵と言えども立場を尊重して、言い分を聞いてやろうって事だろうか。そうすれば、敵も自分のことを認めてくれるのだろうか。

 

冷静に考えれば会社では、自分の分を超えた仕事をしようとしたわたしが悪いのかもしれないし、むやみやたらと働かせた会社が悪いのかもしれない。

二十年後のある日、公民館での合唱サークル活動で、賛美歌なんか大嫌いという人と巡り会いました。わたしはこの人のこのセリフを聞いてショックを受けました。賛美歌は、わたしにとって欠かせない日常だったからです。日常を否定されて、平気でいられるでしょうか。

汝の敵を愛せ。

そうか、もしかしたら、この人は、孤独なのかも知れない。ひょっとしてわたしの上司も、孤独だったのかもしれない。

立場を変えてみよう。みんな世界の中でひとりぼっちなんだ。平和はきっと、お互いに愛しあう事から始まる。

たとえ頭がお花畑だと言われても、わたしにとってイエスの言葉は、そんなにも身近なのです。

神との契約&クリスチャンは、清く正しい人たちなのか?

契約、というとみなさん、どんなことを連想しますか?
自動車保険や生命保険などの契約書。
土地や家屋の売買の契約書。
日本が人の領土を侵略しないという国際的な約束事。
もちろん、そういった契約もありますが、口頭による約束事も、契約になります。

「○○時に××で二次会をするから集まってね!」というのも、契約です。

キリスト教では、聖書は神の言葉が書かれた契約書で、信仰による神と人との一対一の契約です。キリスト教がイエスを信じれば救われると説いたのが新約聖書(神との新しい契約)で、それ以前の聖書は旧約聖書(神との古い契約)。イエスがただの人であるユダヤ教では、新約聖書は、正典として扱っていません。

クリスチャンは清く正しく美しい人が多い……なんてことは、ありません。もし、そういう人ばかりだったら、旧約聖書の登場人物はどうなることやら。神を裏切って楽園を追放されたり、殺人事件を起こしたり、裏切りがあったりと盛りだくさんです。清廉潔白な人は、イエス以外は出てこない感じがしますね。

聖書については、矛盾点が多いし書き換えられた部分もある、という指摘も、聖書批判学の人から出て来たものでした。その方のエッセイを読みましたが、聖書学の本の受け売りで、発見がありませんでした。

その人は、細かいことが気になるせいで、信仰を失ってしまった人なのでしょう。こういうとき、わたしはひそかにグリム童話の『金の卵を産むガチョウ』を思い出します。

 

それは、こんな話でした。

ある農夫婦が、善行のご褒美に、妖精から金の卵を産むガチョウをいただきます。妻は喜び、毎日卵を取っては、町に売りに行きました。夫婦は、あっという間に金持ちになるんですが、あるとき妻は、ふと、疑問に思いました。

――このガチョウ、どうやって金の卵を産むんだろう。仕組みが判れば、もっと卵がゲットできるかも知れない!

ということで、妻は、夫を説得して、ガチョウを解剖しました。ところが、ガチョウの中身は平凡な鳥でした。ガチョウは死んでしまい、せっかく金の卵で儲けていた夫婦は、また貧乏になりました。

聖書って、この、『金の卵を産むガチョウ』に似たところがあります。解剖した結果、せっかく豊かな気持ちになっていたのに、台無しになってしまう……。

わたしの父は、聖書学の本を集めていました。言って見れば、『金の卵を産むガチョウ』を解剖したがる農夫みたいなところがありました。しかし、死が近づくにつれて、それらをすべて売り払ってしまいました。

雑学的アプローチは、キリスト教では余談でしかありません。一生懸命、聖書のこまごまとした部分をあげつらって、ここが矛盾しているあそこがおかしい、というのは、知的な興奮があって楽しいですが、それとイエスを救い主と信じることとは別問題です。

一つ一つ、聖書学的に分析するのも面白いし、裏話的・雑学的アプローチも楽しいんですが、結局、本質的にどうなんだろうとふと、思う自分もいます。
ガチョウが金の卵を産むのなら、それでいいじゃありませんか。

世の中には、理屈では通じない事は山ほどあります。無理が通れば道理が引っ込むということわざもあるくらい、ムリクリを言ってくる人もいますし、だいたい、科学ですべての説明がついてしまったら、人間は暇をもてあましてしまうでしょう。人間がいつ死に、どうやって生きていくのか、迷ったり悩んだりするときにこそ、神の御心を思い巡らせるわけですよ。

聖書が科学的・考古学的に説明がつかないからって、そこに描写されている人間たちに、真実がないとはわたしには思えないわけです。もし、ウソなら、わざわざ殺人事件や財産ぶんどりみたいなことは書かないと思うし。

本のまんま受け売りよりも、わたしは能動的に聖書を読みたいと思っているのです。聖書は、ある程度信用できると考えています。