ある程度の知識や信仰についての記事を、既存の宗教の信徒から出して欲しい――。
NHKの『こころの時代』でそんなふうに言われてしまいました。
わたしは、それほど熱心なクリスチャンではありませんし、知識もあいまいなところがあり、面白がって話を盛る傾向があるので、あまりこの手の教養エッセイには向いてない気もしますが、まあ、やってみます。
唯一神を信仰し、ほかの神を排除する一神教徒(キリスト教徒、ユダヤ教徒、ムスリム)。みなさん、同じ神ヤハウエを信じています。そしてユダヤ教は旧約聖書、キリスト教は旧約聖書と新約聖書、ムスリムは、その二つを合わせた上でコーランがあります。そして、解釈の違いでモメてます。
日本は違う、と言いたいけどどうかしら。
日本という狭い範囲しか見えない、見ようとしない。解釈の違いでモメるより無視する。臭いものに蓋をする。なぜでしょうか。
昔、大東亜戦争で、国家神道の信仰で痛い目にあった経緯があるからでしょうか。あんだけ熱心に国を信じたのに、焼夷弾や原爆でしたたかにヤラレてしまった。宗教は、アブナイものだと無意識に思っている。
それに、戦後にGHQが宗教を教育の場から追放した結果、宗教に無知な人が増えた。旧統一教会も、あるいは平成初期のオウム真理教も、宗教には無知な人が引っかかっていると聞いています。
ではわたしはなぜ、熱心なクリスチャンのように見えないのか。解釈の違いでモメないのか。初詣に出かけるのか。
いちばんの理由は、イエスだったらどう思うだろう、といつも考えているからです。
こんなことを言うとヘンなやつだと思われるんでしょうが、虐げられた人を訪ね、食事もわすれて人々を癒やしたり奇蹟を行ったりしていたイエスが、もし、今、対立する信者たちを見たら、どう思うでしょうか。
あるいは、宗教戦争や人殺しを見たら。
そんなわたしの行動基準は、自分の言行がイエスの言行と沿っているかどうかってことです。たぶん、それは、イエスの言葉を実行しようとする(教条主義の)長老派の影響を受けているからだと思います。まあ、イエスも相当むちゃなことを言ってるから、百パーセントは無理だけどねー。(毎日おなじ服を着ろって、四季のある日本じゃ無理だよ……)
老人ばかりいるので、わたしは教会には行ってません。(長老派の教会は遠いし、教会のある日曜は買出しです)ですが、日本的なキリスト教ということを常に考えています。
初詣に行くのは、そんな考え方の一つの形です。
わたしの見るところ、日本の神さまだと、商売の神さまとか芸能の神さまとか言った神さまが、それぞれ神社という役所みたいな受付口をもうけていて、願いを叶えてくれます。
わたしの考えでは、ヤハウエ神は、アメーバみたいなものだと思ってます。だから、いろんな神さまの専門受付口があっても、神さまのところへ願いが届くのはいっしょです。
もちろん、別な意見があるのは、百も承知です。
それに、神がいつも願いを叶えてくれるとは限りません。神さまは、都合のいい魔法使いではないからです。
ダメもとでお願いしてみる。棒ほど願って針ほど叶うこともある。初詣は、教会以外で神さまと繋がれる行為のひとつです。
初詣で二礼二拍手一礼する。英語でも、郷に入り手は郷に従うということわざがある。
わたしは、日本人が神社やお地蔵さんにおまいりするのを、ステキだと思っています。うちには仏壇があります。義母は毎日お経をあげます。
宗教は麻薬だ、と言った人もいますが、信仰は人々に必要だと思います。
自分自身を取り戻し、心の平安を得るために。
別の意見もあるでしょう。ですが、わたしにはこういう考え方が一番フィットするというだけの話。たいした話じゃないな。
二〇二二年十二月二十五日