『ところ変われば……』その1
サザエさん(アニメ版)を見ながら、こう考えた。
時代が変わるって、大変なことだ。
サザエさんの時代設定は、昭和20年代から30年代。当然、その頃の価値基準が幅をきかせています。サザエさんは、主婦業をたのしんでおり、サラリーマンのマス夫は忘年会シーズンになると、同僚と飲みに出かけて同僚のハダカ踊りに笑い転げます。
「一億総活躍時代」で、サザエさんのような生活をしていたら、
「社会に寄与していない」
と言われるかもしれない。マス夫さんの友だちのハダカ踊りを見て、眉をひそめる人間もいるでしょう。
しかし、サザエさんは普通に主婦をしており、仕事をしていないと責める声は、聞いたことがありません。マス夫さんの友だちについては、時代だからと笑ってしまうほどです。
また、当時『一億総白痴化させる』と言われたテレビも、堂々とあります。
昔みたアニメですが、カツオはこれを見過ぎて、サザエさんから、勉強しなさいと叱られるシーンがありました。今で言うなら、ゲームに眉をひそめるPTAさんといったところでしょうか。でも、みんな笑ってる。
専業主婦のサザエさんが、なぜ、ここまでウケているのか。わたしなりに、考えてみました。
明治・大正時代には、女性もりっぱに社会で働いていました。仕事はいっぱいありました。子守もありましたし、乳母の仕事もありました。掃除の手伝い、井戸水で洗濯をするなど、家事の手伝いもありました。しかし機械化や省力化がすすみ、女性独自の仕事は、ほんとうに限られるようになりました。その代わり、男性独自の仕事にも、女性は進むことができるようになりました。(女医や事務員など)
それとともに、社会は孤立化、他人への無関心が幅を利かせるまでになりました。
人間は、群れで生活するものです。そうやって、進化してきた経緯があります。しかし今では、成長した子どもが、親と生活するのは珍しい。それが原因で『オレオレ詐欺』などというものまで、出現する始末です。
古荘 英雄さんの論を借りますと、
そう、いまだに専業主婦の大家族で人気があるということは、逆に日本人はというか、あれは人間生活の根源である、永遠に三世代くらいで暮らし続けることこそが人類の原型ではないか?
つまりそれくらい根源的であるからサザエさんは今でも続いているのでしょう。
サザエさんは、現代に失われた大切ななにかを、守り続けている、と言えるでしょう。
しかし、もしかしたら、その大切ななにかは、取り戻すことが出来るかもしれない。
災害や異常気象がつづいています。お互いに助け合わなければ、生き残れない時代になりました。サザエさんのように、ほのぼのとした日常は描けないかもしれない。けれど、新しい時代の、介護士やケースワーカーなどの第三者を含んだ暖かい生活というものもまた、もしかしたら、(非常に難しいでしょうが)アニメ化されたりする日がくるかもしれません。
絵心がないので、わたしにはムリ。
『ところ変われば……』その2
いつだったか忘れましたが、テレビをボーッと見ていたら、
こんな放送がありました。
「『源氏物語』は、海外の一部では、児童ポルノを助長させると解釈されている」
その原因は、源氏が子どもを育てて、自分の妻にしちゃうというストーリーのためである、というのでした。
そっちょくに言って、驚きました。
時代背景や、国の文化を配慮せず、自分の価値観でものを測る。
わたしもそういう面はありますが、外国にもそういう方がおられるんですね……。
ちょっとばかり、めまいがしました。
たしかにわたしには、源氏物語の「もののあわれ」は、わかりにくいかもしれません。
しかし、母を求めて女性遍歴をする源氏や、女性たちのキャラクターなど、
ちらと読んだだけでも、じゅうぶん心をうつ物語だと思っています。
聖書にも、ルツ記という、生活の手段を奪われた女性たちの苦労話が載っていて、時代や民族性を超えた、普遍的ななにかがわかります。
古典には、国籍や時代を超えたものが、たしかにあるとわたしは、考えます。
世界で一番古くて長い物語ですし、同じことの繰り返しも多いですから、江戸時代にも完読したひとは少なかったらしい『源氏物語』。
たしかに欠点はあるでしょうが、言うに事欠いて児童ポルノって、難癖をつけるにもほどがあります。
国が違えば、価値観が違うのは当然でしょう。
その国の事情をキッチリ把握して、きちんと読んでくださらないと、はじまりません。
日本人がこんな事情を知れば、なんでも外国のマネをしたがる人が現れて、
「ほらみろ、『源氏物語』なんて退屈でいかがわしいお話なんだ」
ということになり、冒頭すら読まずに色眼鏡で見ることになります。
自分に自信を持ってほしい。
……まあ、わたしも、『源氏物語』は、少ししか読んだことないけど。
『ところ変われば……』Vol3
聖書と英語について、お話しします。
新約聖書は、ギリシャ語(コイネー語)で書かれています。なので、英語に翻訳するときは、苦労したのは間違いありません。文脈から言ってこうだろう、とか、手探りでなんとか翻訳し、英語自体にまで聖書の思想が拡張しました。
その根拠として、たとえば、このような英文法が、実際に世の中には存在します。
He has been dead for two years.
彼は死んでから、ずっと2年間死んでいる。
解説
聖書的解釈では、Soul(魂)は永遠不変で、それがBody(肉体)の中に宿っている。
人は魂が天国へ行くのが理想。Bodyは細胞の状態が終わった時点で、お墓に入る。
この訳では、bodyの寿命が切れた状態が、ずっと2年間続いている。
(背景には、この世の終わりでの復活、という思想もあるでしょう)
欧米での生死観が、まるで違っているから、こういう発想になります。
これは別の単語、Please,surpriseなど、受動態として使う単語にも現れます。
具体例を挙げます。
いま、目の前に素敵な人がいるとする。あなたはその人に、興味を持つ。その人がいるからワクワクする。いなくなったらガッカリする。
みんな、自分が~する型です。
しかし、英語圏の人の考えでは、あなたの心の中に興味の種を植え込む人がいるんです。相手に興味を持たせる存在が。さて、だれでしょう。
やっぱり神さまですね。「神さまが自分に興味を持たせた」になるんです。
「赤い糸で結ばれている」だれが結んだのか? 神さまなんですよ。
ふだんからこういう考え方をする英語圏の人には、神さまが「~させる」という感情が、非常につよい。だから感情表現は、ひたすら「させる! させる!」です。
ひとくちに、英語を学ぶと言っても、これほどの差があるのです。
哲学は難しいですが、こういうところから攻めるのも、異文化理解ということにつながるかもしれません。
『ところ変われば……』とりあえず、最終回
サザエさんは、時代を超えることができるか
『ところ変われば……』で下手くそなエッセイを書いたとき、
質問がありました。
サザエさんは、昭和30年代からちっとも古びていない。
マス夫さんやサザエさんの、ほのぼのとした日常がウケている。
それは、なぜでしょうか?
わたしなりに、考えてみました。
たぶんそれは、以前FBで紹介した、『ルツ記』と関係があるかもしれません。
ストーリーは、以下の通りです。
ナオミという女性が、出稼ぎで外国に行き、夫と息子を両方亡くしました。
外国人の嫁に、わたしは帰国するから、あなたたちとお別れです、と告げるナオミ。
そんなのいやです、と泣く嫁たち。
長男の嫁は説得されて帰りましたが、次男の嫁、ルツは納得せず、
すべてを捨てて、あなたの国へ参ります、と宣言します。
そして、ナオミの国で、ルツは、幸せになるというストーリー展開です。
この聖書のストーリー展開で、ナオミとルツの会話は、
訳はひどいもんですが、わたしとしては胸がほのぼのします。
サザエさん的な雰囲気が、わたしには感じられます。
カツオがおとーさん相手に、お小遣いをせしめるために、
交渉力を発揮するシーンを連想させる、
ナオミのルツへのボアズ・アタック作戦伝授シーンは、
わたしにはツボでした(笑)
ほのぼのとした日常は、どんな世界でも、あり得る状況だと思います。
時代や国籍を超えることが、できるんです。(と、思い込んでます 笑)
なので、おそらく、サザエさんは、今後も残っていくのではないでしょうか。
コミュニケーションの妙や、交渉の仕方など、
昭和30年代から学ぶことは、山ほどありますしね。