うる覚え聖書の話・宗教戦争はなくならない

005   ムスリムだって多神教である?

またしてもテロが起こりました。過激な思想を抱いた えせムスリムたちが、日本人を含む外国人をスリランカで殺しまくったと言います。

宗教ってなんでこうなんだろうねえ。カゲキさに惹かれ、孤独感につけこむ人たちがいるからこうなるのだろうか。新宗教にハマる人の特徴に、居場所を見つけられたという人がいるって論説も見たことがあります。

さて、今回お話するのは、旧約聖書に見られる多神教の残滓(ざんし)です。
ご存じの方もおられるでしょうが、ムスリムはコーランのほかに、新約聖書、旧約聖書を聖典としております(コーランだけ、と言っている情報はえせムスリムたちの主張ですからご注意あれ)。その旧約聖書に記述されている認識は、アブラハムの子孫がムハンマドの先祖にあたるということで、ユダヤ人と中東の人たちは親戚にあたる、というのが基本的な認識です。

ところで意外なことに、一神教である、とされるユダヤ教とキリスト教、ムスリムの聖典の旧約聖書には、昔はかれらが多神教だったことを匂わせる記事が、しっかり載っているのです。

一番有名なのは創世記で、神が「われわれの姿に似せて」人を創ろう、と言う記事があり、これが多神教なのではという指摘があるんですね。

学者の説明では、「我々」と言うことで権威を示しているといいます。英語でも、エリザベス女王はIではなく、WEと言いますし、明治天皇は自分のことをわたし、と言わず朕(複数名詞)を使っていました。

そこのところで納得しない人は、申命記のどこかに、ギデオンが、
「わたしたちの先祖は多神教を信じていた」と言っているシーンがある、と主張していると言っているそうです(どこなんだろう? うる覚えなので堪忍ね(汗))

論理的に考えるなら、ムスリムの先祖も多神教を信じており、ムハンマドによって一神教に鞍替えしたことになります。実際、古代中東には、多神教を信じていたあとが残っています。

(精霊ジンなどが有名ですね)。

アラーはアラビア語では『神』、アラーのほかに神は無し、と主張することによって、ほかの神を意識する逆転の構図も見られたりします。

イエスも、律法でいちばん大事なのは、神を愛することと隣人を愛することだと主張しています。

このあたり、日本の感覚と違うんです(聖徳太子は、いちばん大事なのは『和』だと設定しましたっけね?)

なにごとも神中心の感覚は、英語にまで影響を与えており、

感情を表す動詞の語法―――surpriseなど感情動詞は「驚かせる」など『~させる』という意味になるんですが、その理由は、文化に宗教があるからです。

日本人の考えでは、だれかに好意や嫌悪などの感情を感じた瞬間、自分の心に何かが芽生えたような感覚になるのですが、英語圏の人は「神さまが自分に興味や感情を持たせた」とふだんからそういう感覚です。

『生まれたときから小指と小指が赤い糸で……』云々みたいなこと、聞いたことありませんか。ひたすら他者が「~させる」「させる!」という意味を持ちます。

そういう感覚を持ってない日本人の大多数が、英語が苦手なのは当然でしょう。

うる覚え聖書の話・宗教戦争はなくならない

004 イエスはコミュ障? そのカゲキぶり

前回は、有名なエピソードということでモーゼの話をしました。海が割れたと言うけど現実はどうだったのかとか、モーゼのヘタレぶりとか、『佐渡おけさ』などを書きました。

あまりウケなかったので(汗) やっぱりお約束どおり、イエスのカゲキぶりを書くことにします。革命家というのは概ねそういう面がある。具体的には親鸞だって、カゲキな一面がありました。そのせいで国と対立して、島流しにあったりしたようです(うる覚えなので堪忍ね(汗))

今回の話は、イエスがいかに時代を先取りしていたか、そのせいで周囲から悪目立ちしていたかって話です。

その前に説明します。
ユダヤ人やローマ人、サマリヤ人などは、〝日本人〟と同じような民族の名称です。一方、サドカイ人やパリサイ人というのは、「○○家」「○○派」といった、家系や思想ごとの集団です。そのため、「じん」ではなく「びと」と呼びます。ほかにも、「イエスはガリラヤ人」という場合は、「ガリラヤ出身」という意味です。「○○人」といっても、多様な使われ方がされているのです。

 

 

イエスは大工の息子ということになってました(前述したように、父親はしれません)。そのイエスが、長らく行方不明になっていて、いきなりガリラヤに現れたとたん、
「悔い改めよ、天国は近づいた」
と宣教をはじめます。

で、病気を治したり、虐げられた人々の家におじゃまして説教したり、相談に乗ったりしていました。当時、そういうことをする人はあまりいませんでした。というか、差別されている人々は、そんなものだと放置されていたのですね。

自分たちのことを思いやってくれる人がいる。

世間から冷たい扱いをされていた人々が慕って集まり、群衆がゾロゾロ。
それで前述したようにイエスの家族からイカれたと思われ、引っ張り戻されそうになったりします。

イエスは、「預言者は故郷では歓迎されない」みたいなこと言ってますが、わたしに言わせると、イエス自身、世渡りが下手だったんじゃないかと。

マタイやマルコの福音書を見る限りでは、パリサイ人や律法学者と論争したときも、かなりキツいことばでかれらを攻撃しています。

 

 

マタイによる福音書第23章には律法学者とパリサイ派(ファリサイ派)の人々に対するイエスの非難がこれでもかというほど記されています。
(引用開始)
「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。」
(引用終わり)

 

と始まります。彼らが口にする律法そのものは間違ったものではないので尊重しなさい。でもあの人達のようになってはいけませんと言われています。
では、なにがいけないのか。

 

鍵となる言葉が、5節の、「そのすることは、すべて人に見せるためである」。「人に見せるため」が「偽善」の本質。それは23章以前から(6章から)偽善者たちが、「見てもらおうとして、人の前で」、施しをしたり、祈ったり、断食をすることが指摘されていました。「人に見せるため」に良い事をする、それによって、自分が立派な人、善い人、神様に熱心に仕え従っている者であることを人に認めてもらおうとする、それが偽善ということです。

 

偽善という日本語は、自分を善い者だと偽るという意味ですが、それは人に対してそう見せる、ほんとうはそうでないのに、人の前では善い者であるふりをするということですから、「人に見せるため」ということが偽善の本質であることは私たちもよくわかるのです。

それはいいんですが、イエスは非難をするあまり、言い過ぎのことまで言ってます。パリサイ人の本質は、白い墓とおなじで外面はいいけど中身はウジがわいてるとかいろいろ……。
そりゃパリサイ人も、怒るわな。
法律を重んじるパリサイ人。マジメな人たちも多かったでしょう。話せば分かる人もでてきたかもしれない。だけどそうせず、非難してばかりいる。イエスはきっと、コミュ障にちがいない、というのがわたしのロジック。
信者のひと、ごめんしてね。

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003 海が割れるのよ~♪ えっ、ほんと?

というわけで趣向を変えた連載パート3は、モーゼの話です。

聖書のモーゼは、実在の人ではないらしいですが、かれが岸壁に立って杖をかざすと、「海が割れるのよ~」とどど~っと海が逆巻く、というシーンは、だれでも一度は見たことがあるかも知れない(ドラえもんにも引用されていた気がする)。

そんな奇跡を起こし、エジプトから逃げのびたイスラエル人たちですが、なぜそうなったかというとエジプトが自国で増加しつつあった移民であるイスラエル人を、奴隷にして働かせていたからだ、と聖書には書いてありました。

どこの世界でも、移民問題って深刻だね。日本じゃ在日問題があるし、アメリカじゃネイティブ・アメリカンや黒人の問題がある。

映画『十戒』では、ピラミッドの建設に関わった奴隷のイスラエル人が、鞭で打たれているシーンがあった記憶があります。歴史上それはウソだったらしいけど。

モーゼはそのとき、エジプトのファラオの娘に育てられていました。
モーゼが生まれた頃、ファラオがジャマなイスラエル人の幼子を皆殺しにする命令をエジプトに下していて、思いあまった母親が、ナイル川に我が子を入れた籠を流し(ナイル川はおだやかな川なので可能です)、どうなることかと固唾を飲んで見守っていたのでした


で、ファラオの娘がこれを見つけて、「かわいい(はあと)」と引き上げた(moses:川から引き上げた子)ことから、モーゼと名付けられたといいます。

貴種流離譚のはじまりです。川から流れてきたんだから、おまえは桃太郎か、というツッコミはなしにしましょう。ファラオに育てられつつも、育ての親は実の母親で(つまり乳母だった)、自分がほんとはエジプト人じゃないことを知っていました。

自分のアイデンティティはどこにあるのか。
悩んだこともあったかも。
で、ピラミッド建設現場をブラブラ散歩していたら、しっかりエジプト人がイスラエル人をむち打って酷い目に遭わせていたので、それを止めようとして誤ってエジプト人を殺してしまいます。

ファラオの子どもでも、殺人罪はただでは済みません。
モーゼは恐くなって、その場から逃げ出してしまいます。

 

 

ヘタレな主人公が、いかにしてリーダーになっていくのか。

聖書を読んでいくと、妻をめとって平和な暮らしをしていたかれに、あるとき転機が訪れます。羊を飼うために山にのぼっていたら、そこで燃える柴に遭遇。

そこから声がしたのでビックリ仰天!
モーゼはこの正体不明の声の持ち主に、自分がイスラエル人の神であり、エジプトの圧政からイスラエル人を解放するために、モーゼを選んだと告げられてしまいます。

モーゼは二度ビックリしますが、最終的にこの使命を受け容れます。

しっかりしろ、おまえがやらねばだれがやると自分で思ったのかどうかは知らない。

モーゼは弟のアロンとともにファラオに対面。
さんざん、自分たちを苦しめたエジプトに、復讐するかのように、
七つの災害を起こして、エジプト人を苦しめるのでした。

ファラオも、一回でイスラエル人をあきらめればいいのに、「神がかたくなにしたので」なかなかエジプト脱出のOKを出さないんですね。

ついに自分の子どもまで死なせてしまい、しぶしぶ、OKを出しました。

で、イスラエル人はエジプト脱出。
ところが、やっぱ気を変えたファラオが軍を率いて追いかけてくる。

前は海、退路はなし。
前はうーみ、むこうは佐渡よーホレ。(違)

そこで神が奇跡を起こした、というのが、冒頭のシーンになるわけです。
ざっとあらすじを書いていても、良く出来た話だなと感心しちゃいます。

おそらく聖書の中では、このモーゼの奇跡が、もっともよく知られている話でしょう。
じっさいには、海が割れたわけじゃなく、もっと浅い湖みたいなところを、葦を踏み分けつつ逃げたらしいんですがね(夢がないね)

うる覚え聖書の話・宗教戦争はなくならない

002  ラノベと聖書の方法論

 

「マタイによる福音書」の冒頭が、かなり読みにくいために、読むのをやめてしまう人は多いでしょう。せっかく興味を持ったのに、と思う人もいるかもね。

実はこうなったのは、「マタイによる福音書」の対象者が、我々とは違っているためなんです。

「マタイによる福音書」は、ユダヤ教から改宗したキリスト者に特に留意して編集されてます。つまり、ユダヤ教の素養がある人を対象にしているわけ(しかもイエスの弟子のマタイが書いたわけじゃないという……詳細はまたね)。

具体的に説明するなら、冒頭の「アブラハム」は、ユダヤ教の開祖ですし(ムスリムの先祖でもあるとされています)、イサクやダビデ王などの人名を見れば、

そういえばこの人には、旧約聖書のあのエピソードがあったな、

と思い起こせる仕組みになっているわけですね。(詳細は、このシリーズが好評ならお話します)。

こういうふうにずらずら人名をならべていき、イエスがちゃんとしたユダヤ人だということを説明します。

なぜそうするのかっていうと、みなさんご存じのように、イエスは父親が知れません。(神さまが父親だというのが、「ルカによる福音書」の主張です……。天使のマリアへの受胎告知は、そういう意味です)。ところがこの「マタイによる福音書」では、ダビデの子孫だと主張しているのです。(実際にはどうだったのかな)

ムスリムの開祖ムハンマドは、天使からコーランを授かったことになっており、イエスは単なる人間にしか過ぎないとしています。
そこのところがネックになって、キリスト教とムスリムはケンカしているんですね。
ユダヤ教もイエスを人間だと主張しておりますが、世界中の人を巻き込む過激なことはしていない(けど、中東で問題行動を起こして戦争になり、ムスリムから敵視されています)。

ただの人を神さまと信じるなんておろかだ、というムスリム・ユダヤの主張をよそに、それをはずしたらキリスト教は成り立たないと思う人たちの間で、争いが起こっているってわけなんです。

 

ところでアブラハム、イエス、ムハンマドに共通するのは、そのカリスマ性でしょう。

とくにイエスやムハンマドは、その行動の奇抜さに、

イカれた

と思われて家族から止めに入られたそうです。イエスに関してはその記事が、しっかり新約聖書に載ってます(笑)

ムハンマドについては、伝承の形でそれが伝わっていたと記憶していますが、うる覚えなので堪忍ね(汗)

イエスがイカれたと書いてあるのは、たしかマタイではなく、マルコの福音書だった記憶がありますが、この四つの福音書を比較して、対象者が違うと、こうも表現が違うのかと感心したりするのも、お話を書く人としてはアリかもしれません。

つまり、ラノベ対象者と、一般小説対象者が書き方が違うのと同じ。

内容が同じでも、ラノベと一般小説は、文体も単語も違います。たとえば『精霊の守り人』シリーズは敵と戦ってこれに勝利する話ですが、生活を楽しむシーンも出てきます。ラノベも魔王と戦ったりスローライフを楽しみますが、ゲーム的な素養も必要です。

そんなふうに、マタイによる福音書には、旧約聖書の素養が必要になったりするわけです。

旧約聖書なんてきょーみねーよ、という人にひとこと。

『モーゼ』の海割のシーン、あれも旧約聖書だよ。
あと、羊飼いの『ダビデ』が巨人を倒す話も面白いよね。
女にヨワイちから自慢のサムソンが、いかにしてデリラに裏切られたか。このあたりも、読むと面白い。

旧約聖書は、物語が面白いんです。途中、つまんないのもありますが(汗)
それに、新約とつながっている部分もかなりあるので、ちょくちょくその解説もしていったほうが、わかりやすいかもしれない。

率直に言って、新約聖書は説教臭いから好きじゃないです(こら)。
このシリーズがウケたら、当時のイエスのカゲキぶりも書いてみようかな。
そのせいで若くして十字架に架けられちゃうんだから、イエスってアホ。

うる覚え聖書の話・宗教戦争はなくならない 001

001 マグダラのマリア

ちまたで えせムスリムたちのテロが席巻し、キリスト教徒やユダヤ教徒、はては日本人までぶっ殺していたりしますが、これはいったいなぜなのか。
だいたい、なぜ宗教戦争はなくならないのか、キリスト教とムスリムの宗教観の違いや、両者の共通教典である『聖書』をモチーフに、キリスト教から研究をすすめていこう、という、無謀な計画です。

まあ、手っ取り早くいうなら、キリスト教とムスリムとユダヤ教は、同じ神を信じてますが、解釈が違うってだけの話ですけどね。
たったそれだけのことで人を殺すところまで行ってしまうんだから、宗教ってたいがいですが、この話を書こうとしたきっかけは、とあるカクヨムユーザーの聖書の話が、わりとうる覚えだったらしくて、わたしから見ると、
「こりゃあかんわ」
ヘタしたら、嘲笑されるかもしれないなぁ(それで済めばいいけど)と危惧を抱いたので、それで、この連載をはじめようと思った次第です。

第一回目の聖書の話は、マグダラのマリアの話です。
わりと有名なのか、この人は洋モノのドラマや映画などにモチーフとして語られています。手っ取り早く書くなら、売春婦だったマグダラのマリアに、罪を犯したとして人々がある行動をするのですが、それをイエスが「この中で罪を犯さなかった人だけ、マリアを○○しろ」といったことを言って止める、というシーンです。
ここで重要なのは、人々がやったのが「棒で叩く」のではなく、「石を投げる」行為であったこと。
投石ぐらいどうってことないみたいですが、あたりどころが悪かったら死にます(汗)。それともう一つ、棒で叩いたら反抗もしやすいでしょうが、投石だと加害者が逃げやすい(汗) 実際、集団で投石するのが風習としてありました。よってたかっていじめていたわけですな。
この風習がはじまったのは、旧約聖書にある太古からの神の命令(法律)、
『律法(りっぽう)』に、
姦通をした人は投石で罰すべし
という記事があるからで、伊達や酔狂で投石しているわけではないのです。
つまり、法律どおり、信仰・信念どおりに行動していたわけですね。
イエスはその非人道的なところを指摘したわけです。
こういうことばっかりやってたので、その信仰で得をしていた人たち(パリサイ人とか律法学者とか)から敵視されていくのです。
それにしても、このイエスという人はどんな人だったのでしょうか。
興味を抱いて新約聖書をひもとくと、「マタイによる福音書」とあり、いきなりずらっとカタカナが並んでいます。
「なんのこっちゃ」
意味のないと思われる人名の数々。筒井康隆は、この冒頭をパクって、『バブリング創世記』という、けっこう笑える話を作ってますが、いちおうこのカタカナには意味があります。
マタイによる福音書の文体は、夏目漱石の文体に影響を与えたという話をどこかで見たような気がします(うる覚えですが)。そりゃそうです。イエス死後、聖書が30冊以上つくられていたそうですが、そのなかでいちばん文章力がある、という理由で新約聖書の冒頭に持ってきているんです。いきなり人名がずらずらしているためとっつきにくい印象はありますが、それにもちゃんとした理由があります。
長くなるので、この辺で。
次回は、「海が割れるのよ~♪」モーゼの話です。

よろしくお願いします。