さて、いままで自明の理として、キリスト教の定義を
放置したまま話を続けてきたわけですが、
ここで改めて「キリスト教ってなんだ?」
ということについて、お話しします。
キリスト教は、ユダヤ教・イスラム教とならぶ一神教です。
神さまはひとりしかいません。
ほかの神さまはニセモノということになっています。
同じキリスト教にもいろんな教派があって、それぞれ、主張が違いますが、
おおざっぱに言って、キリスト教の共通項として、
「父」
「子」
「聖霊」
を等しく神として礼拝や讃美の対象としています。
これを「三位一体」と呼んでいます。
子なる神
まずは「キリスト教」の名の由来になった子なる神、
イエス・キリストについて。
キリストとは救い主、という意味です。歴史上実在した人物です。
ラテン語では「キリエ」、ヘブライ語では「メシア」と呼んでいます。
イエスは人間であり、神。十字架にかかって死に、三日目に復活した、というのがキリスト教のキリスト教たるゆえん。
父なる神
子がいるなら親もいるというわけで、父なる神という概念も、キリスト教にはあります。
唯一で、万物の創造主で、全知全能で、人格がある(人間と同じように喜怒哀楽がある)という特徴があります。
概念としてではなく、ほんとうにいるというのが、キリスト教の教えです。
聖霊
「父と子と聖霊の名において」という洋ドラや洋画がありますが、
ファンタジーアニメなんかに出てくる「火の精霊」とかいったものではありません。
神の霊で、原則として目に見えません。「父」と「子」と同じように、この聖霊も神そのものです。
わたしたちに直接かたりかけ、わたしたちの人格に触れ、
わたしたちに力を与え、救いへと導いてくださる方です。
これらの概念は、キリスト教においてはもっとも大切な概念のひとつです。
ひとつだけど三つ! 三つだけどひとつ! ということですかね。
これを詳しくいうのは、わたしの手には余ります。
わたしははぐれクリスチャンですから、本筋から逸れていたりすることも多々あります。
三位一体については、基本的に異論はありませんが、もちろん、これを批判する意見もあります。
イスラム教などは、三つも神の概念があるなんて、多神教と同じじゃないか、と批判します。
ムスリムにとって、イエスは神の子でもなんでもないただの預言者です。
預言者とは、神の言葉を預かって広めた人間のことで、現実の民衆を批判したり、はげましたりする指導者でもありました。
ムスリムは、アラーこそが絶対者で、それ以外は認めません。
三位一体は、多神教なのかもしれません。
聖書をよく読めば、聖霊ということばが出て来たのは、新約聖書からだということが見えてきます。
イエス・キリストが別格なのはもちろんですが、神は三位一体だけの存在なのでしょうか。
昔の人は、認識力が乏しかったので、神のおおきな存在を、捉えることが
出来なかったかもしれません。
なのでわたしは、三位一体説を押し広げて、神をアメーバみたいなものだと考えるのです。
ある部分をとりあげれば、子なる神イエス・キリスト。
ある部分を見れば、聖霊。
別な部分だったら、もしかしたら大黒さまや、恵比寿さまだったりするかもしれません。
この考え方は、夫の影響もあります。
夫は真言宗で、大日如来について、いろいろ教えてくれました。
大日如来は、さまざまな仏の姿になることが出来るそうです。
夫によると、
神は、縦から見た姿
横から見た姿
斜めから見た姿
さまざまな姿があり、
それぞれの宗教が、自分が正しいと主張しているだけだ、
というのです。
異論はあろうかと思いますが
わたしにとって神は、アメーバみたいで、神社はアメーバみたいな神にアクセスするための便宜上の施設です。
末端がどれほど違っていても
トップは神さまということですね。
まあ、日本で暮らしてるクリスチャンだから
純粋さはなくなるよね、というお話です。