キリスト教ってなんなんだ

さて、いままで自明の理として、キリスト教の定義を
放置したまま話を続けてきたわけですが、
ここで改めて「キリスト教ってなんだ?」
ということについて、お話しします。

キリスト教は、ユダヤ教・イスラム教とならぶ一神教です。
神さまはひとりしかいません。

ほかの神さまはニセモノということになっています。
同じキリスト教にもいろんな教派があって、それぞれ、主張が違いますが、
おおざっぱに言って、キリスト教の共通項として、

「父」
「子」
「聖霊」
を等しく神として礼拝や讃美の対象としています。

これを「三位一体」と呼んでいます。

子なる神
まずは「キリスト教」の名の由来になった子なる神、
イエス・キリストについて。
キリストとは救い主、という意味です。歴史上実在した人物です。
ラテン語では「キリエ」、ヘブライ語では「メシア」と呼んでいます。
イエスは人間であり、神。十字架にかかって死に、三日目に復活した、というのがキリスト教のキリスト教たるゆえん。

父なる神
子がいるなら親もいるというわけで、父なる神という概念も、キリスト教にはあります。
唯一で、万物の創造主で、全知全能で、人格がある(人間と同じように喜怒哀楽がある)という特徴があります。
概念としてではなく、ほんとうにいるというのが、キリスト教の教えです。

聖霊
「父と子と聖霊の名において」という洋ドラや洋画がありますが、
ファンタジーアニメなんかに出てくる「火の精霊」とかいったものではありません。
神の霊で、原則として目に見えません。「父」と「子」と同じように、この聖霊も神そのものです。

わたしたちに直接かたりかけ、わたしたちの人格に触れ、
わたしたちに力を与え、救いへと導いてくださる方です。

 

これらの概念は、キリスト教においてはもっとも大切な概念のひとつです。
ひとつだけど三つ! 三つだけどひとつ! ということですかね。
これを詳しくいうのは、わたしの手には余ります。
わたしははぐれクリスチャンですから、本筋から逸れていたりすることも多々あります。
三位一体については、基本的に異論はありませんが、もちろん、これを批判する意見もあります。

 

イスラム教などは、三つも神の概念があるなんて、多神教と同じじゃないか、と批判します。
ムスリムにとって、イエスは神の子でもなんでもないただの預言者です。
預言者とは、神の言葉を預かって広めた人間のことで、現実の民衆を批判したり、はげましたりする指導者でもありました。
ムスリムは、アラーこそが絶対者で、それ以外は認めません。

三位一体は、多神教なのかもしれません。
聖書をよく読めば、聖霊ということばが出て来たのは、新約聖書からだということが見えてきます。

イエス・キリストが別格なのはもちろんですが、神は三位一体だけの存在なのでしょうか。
昔の人は、認識力が乏しかったので、神のおおきな存在を、捉えることが
出来なかったかもしれません。

 

なのでわたしは、三位一体説を押し広げて、神をアメーバみたいなものだと考えるのです。
ある部分をとりあげれば、子なる神イエス・キリスト。
ある部分を見れば、聖霊。
別な部分だったら、もしかしたら大黒さまや、恵比寿さまだったりするかもしれません。

 

この考え方は、夫の影響もあります。
夫は真言宗で、大日如来について、いろいろ教えてくれました。
大日如来は、さまざまな仏の姿になることが出来るそうです。
夫によると、
神は、縦から見た姿
横から見た姿
斜めから見た姿
さまざまな姿があり、
それぞれの宗教が、自分が正しいと主張しているだけだ、
というのです。

 

異論はあろうかと思いますが
わたしにとって神は、アメーバみたいで、神社はアメーバみたいな神にアクセスするための便宜上の施設です。
末端がどれほど違っていても
トップは神さまということですね。
まあ、日本で暮らしてるクリスチャンだから
純粋さはなくなるよね、というお話です。

 

宗教におけるタブーな言葉

わたしは左翼系のクリスチャンなので、たいていの日本人の無知には
おおらかに許している面がありますが、
アメリカの中西部(テキサスなど)にいる右翼系クリスチャンだったら、
わたしの考えている神の概念だったり、
イエスを友だちと呼んだりすること自体、
「冒涜(ぼうとく)だ」と反発、攻撃するかも知れません。

こんなわたしでも、たとえばイエスのことを
「弱虫だ、つまらん」
と批判されたら怒ります。
だから、芥川龍之介の「おしの」という作品で
主人公がイエスのことをけちょんけちょんにやっつけてるのを見て
芥川が大嫌いになりました(滝汗)

それに、「信仰上の理由で対立するなんて」という人には
大切なものが違うという事実に傷つきました。

そんなふうに、宗教の話題は炎上するのが必至なので、
公の場ではしないことになっているはずですが、
右翼系クリスチャンなどは無自覚に、
クリスマスになるとチャットで「メリークリスマス」と挨拶を交すようです。
これは、ムスリムにとってはタブーな言葉です。

というのもムスリムにとって大事なのは、イエスじゃなくてアラー(神という意味)。
そもそもクリスマスには、キリスト(クリスト)を祝うミサ(マス)という意味があるのです。
つまりムスリムにとってはイエスは神の言葉を預かって広めたただの人(預言者)なので、クリスマスを祝うのはキリスト教の押しつけになるのです。

また、サイレント・メジャーな国インドは
多神教(ヒンドゥー)なので、イエスは眼中にない。
仏教も、そうですよね。(あまりうるさくは言わないけど)。
そういう理由で、アメリカでも多民族な地方(カリフォルニアなど)では、
メリークリスマスと言う代わりに、
ハッピーホリデー、と呼んでいるようです。
自分の文化より、共存の道を選択したわけ。偉い。

所変われば品変わる。
場所どころか時代によって変化したアメリカの言葉もあります。
「なんてこった! (Oh My God!)」は、50年代アメリカでは、
「Oh My…」
で絶句するのが常でした。
映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のワンシーンで
ドク・ブラウンが叫ぶところの
“Great Scott!”
は、Oh My Godの遠回しな表現です(聖書曰く、主の名をみだりに唱えるべからず)。
God ではなく Scott なのは、音が似ているからです。

ところが60年代頃からからアメリカもだんだん、世俗化しました。
70年代に流行った”Love and Peace”運動により
キリスト教的な価値観が揺るがされてしまったのです。
これには、その当時敗戦の色濃かったベトナム戦争も、関係があったかも知れません。

キリスト教が絶対的な価値観を持っていた時代があったのはたしかです。
その影響で、いまだにキリスト教的な文化を無自覚に持っている人たちも、
西洋人のなかには多いでしょう。

これは、「あたりまえ」の感覚が違うってことです。
日本では、食前に手を合わせ、
「いただきます」と、命をいただくことを感謝するのですが
西洋では、食前に手を組み合わせ、
「主よ、今日の恵みに感謝します」
と神さまにお礼を言うのが文化的にまだあるはずです。
命をいただくのを、食べものに感謝するのが日本人ですが、
西洋では、神から食べものを賜るというのが感覚的にある。

なので、キリスト教系右派の家に留学に行った人が
食前に手を合わせて「いただきます」をしたら
「おまえの宗教を押しつけるのか」
と大問題になった話をしてくれたときは、
さもありなんと深く納得しました。

多民族とどう生きるのか。
今後の日本は、多様化の時代だと言われています。物理的にも、海外から多くの人が入ってくる。いろんな文化がやって来ます。触らぬ神に祟りなしと、知らん顔をするより、知るは楽しみなりと好奇心を持って人に接することは、とても大切なことだと考えます。
それは、自分なりの人生をどう生きるか、ということなのです。

 

一神教を信じる宗教3つ

キリスト教の誕生には、ユダヤ教が深く関わっています。

2000年前、ユダヤ人は古代ローマの支配下に入っていました。そしてイエスが現れ、十字架にかけられて死に、復活したことになっています。 つまり一神教のユダヤ教からキリスト教が始まりました。聖書も一部、おなじものを使っています。

 

 

 

その後、中東地方で人々の堕落を憂いたムハンマドが、天使からコーランとキリスト教の教典をもらい、イスラム教をはじめました。

要するに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ神を信仰しています。

ここで疑問が起きます。
同じ神を信じているのに、なんで三つも大きな流れの宗教があるの?

答えは簡単です。イエスをどう見るか、そこで対立があるのです。

 

ユダヤ教徒にとっては、イエスはただの人ですし、ムスリムにとっては、神の言葉を預かって広めた預言者ですが、キリスト教にとってはイエスは神の子で、神そのもの。それを信じない人間は、許せない! ということになります。

 

なにを血迷ったことをと、嗤うユダヤ教徒とムスリムたち。しかし考えてみると、ひとつの考え方に凝り固まって対立するのは、現代でもよくある話です。

中国では、自分の領土を広げることが至上命令です。中華と名乗っているからには、遠い昔の唐や随の時代のことも、念頭にあるでしょう。そんな時代は終わったのに、まだこだわってる。ヘタに自分が偉かった時代があったから、その栄光が忘れられないのかな。

 

日本では、高度成長期の理屈を振りまわす上司が、老害だったりします。「団結だ!  根性だ! 働け働け!」それで栄光を掴んできたから、若者にも強要する。

だけど、時代はいまや少子高齢化、働ける人数も減ってきているのです。夜遅くまで働いても、仕事の量は減らない。疲れがたまり、不平が出て来ます。

老人たちは、若者の不満を理解しようともしません。自分たちがうまく出来たんだから、若者だって出来ると信じている。

 

わたしも会社にSEとして勤めていたときに、主婦として仕事があるだろうから、定時で帰すという約束で、スーパーの情報処理部に契約社員として勤めたのでした。ところが上司は、残業しろ、残業しろとうるさい。仕事は根性でこなせ。契約以外の仕事もやれ。働け働け!

わたしは会社と主婦としての仕事の両立が出来ませんでした。スーパーウーマンにはなれませんでした。嫌がらせがはじまり、わたしの心はズタズタになりした。

こうして、一生かかっても治らない病気にかかり、会社を辞めざるをえなくなりました。
弱者を排除して会社は存続し続ける。憎しみがこみ上げてきます。

 

しかし、イエスはこんなふうに言うのです。
「汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」

 

そんなこと、出来るわけありません。そもそも愛したからって、敵からそれが返ってくるでしょうか。わたしはずっと考えていました。

 

イエスの言う意味は、敵と言えども立場を尊重して、言い分を聞いてやろうって事だろうか。そうすれば、敵も自分のことを認めてくれるのだろうか。

 

冷静に考えれば会社では、自分の分を超えた仕事をしようとしたわたしが悪いのかもしれないし、むやみやたらと働かせた会社が悪いのかもしれない。

二十年後のある日、公民館での合唱サークル活動で、賛美歌なんか大嫌いという人と巡り会いました。わたしはこの人のこのセリフを聞いてショックを受けました。賛美歌は、わたしにとって欠かせない日常だったからです。日常を否定されて、平気でいられるでしょうか。

汝の敵を愛せ。

そうか、もしかしたら、この人は、孤独なのかも知れない。ひょっとしてわたしの上司も、孤独だったのかもしれない。

立場を変えてみよう。みんな世界の中でひとりぼっちなんだ。平和はきっと、お互いに愛しあう事から始まる。

たとえ頭がお花畑だと言われても、わたしにとってイエスの言葉は、そんなにも身近なのです。

神との契約&クリスチャンは、清く正しい人たちなのか?

契約、というとみなさん、どんなことを連想しますか?
自動車保険や生命保険などの契約書。
土地や家屋の売買の契約書。
日本が人の領土を侵略しないという国際的な約束事。
もちろん、そういった契約もありますが、口頭による約束事も、契約になります。

「○○時に××で二次会をするから集まってね!」というのも、契約です。

キリスト教では、聖書は神の言葉が書かれた契約書で、信仰による神と人との一対一の契約です。キリスト教がイエスを信じれば救われると説いたのが新約聖書(神との新しい契約)で、それ以前の聖書は旧約聖書(神との古い契約)。イエスがただの人であるユダヤ教では、新約聖書は、正典として扱っていません。

クリスチャンは清く正しく美しい人が多い……なんてことは、ありません。もし、そういう人ばかりだったら、旧約聖書の登場人物はどうなることやら。神を裏切って楽園を追放されたり、殺人事件を起こしたり、裏切りがあったりと盛りだくさんです。清廉潔白な人は、イエス以外は出てこない感じがしますね。

聖書については、矛盾点が多いし書き換えられた部分もある、という指摘も、聖書批判学の人から出て来たものでした。その方のエッセイを読みましたが、聖書学の本の受け売りで、発見がありませんでした。

その人は、細かいことが気になるせいで、信仰を失ってしまった人なのでしょう。こういうとき、わたしはひそかにグリム童話の『金の卵を産むガチョウ』を思い出します。

 

それは、こんな話でした。

ある農夫婦が、善行のご褒美に、妖精から金の卵を産むガチョウをいただきます。妻は喜び、毎日卵を取っては、町に売りに行きました。夫婦は、あっという間に金持ちになるんですが、あるとき妻は、ふと、疑問に思いました。

――このガチョウ、どうやって金の卵を産むんだろう。仕組みが判れば、もっと卵がゲットできるかも知れない!

ということで、妻は、夫を説得して、ガチョウを解剖しました。ところが、ガチョウの中身は平凡な鳥でした。ガチョウは死んでしまい、せっかく金の卵で儲けていた夫婦は、また貧乏になりました。

聖書って、この、『金の卵を産むガチョウ』に似たところがあります。解剖した結果、せっかく豊かな気持ちになっていたのに、台無しになってしまう……。

わたしの父は、聖書学の本を集めていました。言って見れば、『金の卵を産むガチョウ』を解剖したがる農夫みたいなところがありました。しかし、死が近づくにつれて、それらをすべて売り払ってしまいました。

雑学的アプローチは、キリスト教では余談でしかありません。一生懸命、聖書のこまごまとした部分をあげつらって、ここが矛盾しているあそこがおかしい、というのは、知的な興奮があって楽しいですが、それとイエスを救い主と信じることとは別問題です。

一つ一つ、聖書学的に分析するのも面白いし、裏話的・雑学的アプローチも楽しいんですが、結局、本質的にどうなんだろうとふと、思う自分もいます。
ガチョウが金の卵を産むのなら、それでいいじゃありませんか。

世の中には、理屈では通じない事は山ほどあります。無理が通れば道理が引っ込むということわざもあるくらい、ムリクリを言ってくる人もいますし、だいたい、科学ですべての説明がついてしまったら、人間は暇をもてあましてしまうでしょう。人間がいつ死に、どうやって生きていくのか、迷ったり悩んだりするときにこそ、神の御心を思い巡らせるわけですよ。

聖書が科学的・考古学的に説明がつかないからって、そこに描写されている人間たちに、真実がないとはわたしには思えないわけです。もし、ウソなら、わざわざ殺人事件や財産ぶんどりみたいなことは書かないと思うし。

本のまんま受け売りよりも、わたしは能動的に聖書を読みたいと思っているのです。聖書は、ある程度信用できると考えています。

クリスチャンのわたしが初詣に行くわけ

ある程度の知識や信仰についての記事を、既存の宗教の信徒から出して欲しい――。
NHKの『こころの時代』でそんなふうに言われてしまいました。

わたしは、それほど熱心なクリスチャンではありませんし、知識もあいまいなところがあり、面白がって話を盛る傾向があるので、あまりこの手の教養エッセイには向いてない気もしますが、まあ、やってみます。

唯一神を信仰し、ほかの神を排除する一神教徒(キリスト教徒、ユダヤ教徒、ムスリム)。みなさん、同じ神ヤハウエを信じています。そしてユダヤ教は旧約聖書、キリスト教は旧約聖書と新約聖書、ムスリムは、その二つを合わせた上でコーランがあります。そして、解釈の違いでモメてます。

日本は違う、と言いたいけどどうかしら。

日本という狭い範囲しか見えない、見ようとしない。解釈の違いでモメるより無視する。臭いものに蓋をする。なぜでしょうか。

昔、大東亜戦争で、国家神道の信仰で痛い目にあった経緯があるからでしょうか。あんだけ熱心に国を信じたのに、焼夷弾や原爆でしたたかにヤラレてしまった。宗教は、アブナイものだと無意識に思っている。

 

それに、戦後にGHQが宗教を教育の場から追放した結果、宗教に無知な人が増えた。旧統一教会も、あるいは平成初期のオウム真理教も、宗教には無知な人が引っかかっていると聞いています。

 

ではわたしはなぜ、熱心なクリスチャンのように見えないのか。解釈の違いでモメないのか。初詣に出かけるのか。

 

いちばんの理由は、イエスだったらどう思うだろう、といつも考えているからです。
こんなことを言うとヘンなやつだと思われるんでしょうが、虐げられた人を訪ね、食事もわすれて人々を癒やしたり奇蹟を行ったりしていたイエスが、もし、今、対立する信者たちを見たら、どう思うでしょうか。

あるいは、宗教戦争や人殺しを見たら。

そんなわたしの行動基準は、自分の言行がイエスの言行と沿っているかどうかってことです。たぶん、それは、イエスの言葉を実行しようとする(教条主義の)長老派の影響を受けているからだと思います。まあ、イエスも相当むちゃなことを言ってるから、百パーセントは無理だけどねー。(毎日おなじ服を着ろって、四季のある日本じゃ無理だよ……)

老人ばかりいるので、わたしは教会には行ってません。(長老派の教会は遠いし、教会のある日曜は買出しです)ですが、日本的なキリスト教ということを常に考えています。

初詣に行くのは、そんな考え方の一つの形です。

わたしの見るところ、日本の神さまだと、商売の神さまとか芸能の神さまとか言った神さまが、それぞれ神社という役所みたいな受付口をもうけていて、願いを叶えてくれます。

わたしの考えでは、ヤハウエ神は、アメーバみたいなものだと思ってます。だから、いろんな神さまの専門受付口があっても、神さまのところへ願いが届くのはいっしょです。

もちろん、別な意見があるのは、百も承知です。

それに、神がいつも願いを叶えてくれるとは限りません。神さまは、都合のいい魔法使いではないからです。

ダメもとでお願いしてみる。棒ほど願って針ほど叶うこともある。初詣は、教会以外で神さまと繋がれる行為のひとつです。

初詣で二礼二拍手一礼する。英語でも、郷に入り手は郷に従うということわざがある。
わたしは、日本人が神社やお地蔵さんにおまいりするのを、ステキだと思っています。うちには仏壇があります。義母は毎日お経をあげます。

宗教は麻薬だ、と言った人もいますが、信仰は人々に必要だと思います。
自分自身を取り戻し、心の平安を得るために。

別の意見もあるでしょう。ですが、わたしにはこういう考え方が一番フィットするというだけの話。たいした話じゃないな。

二〇二二年十二月二十五日

まぼろしの星(星新一)は、スタトレだ!

自分に刺さった部分と
今の自分と重ねること
今後の自分に生かすとしたら
の三つに分けました。

自分に刺さった部分:

星新一らしくスピード感あるストーリー展開ですが
TOSぽいところも。

どこがスタートレックかというと、
宇宙を舞台に、いろんな発見をして冒険する、というところ。
独特の宇宙観がいい。

主人公のノブオは共感できるキャラクター。
怖い目にあえば、おびえて泣きそうになりますが、
それでも、勇気を持って事件に挑戦していきます。
事件が次々起こるというところが
一昔前の宇宙活劇で懐かしかった。
いかにもジュブナイル。

ある星で、自分の活躍が映画になって見れる、というところ、
SNSで動画を撮って日常をUPしている
TouYuberがいることを
思い出しました。
日常は、工夫次第で楽しくなるのね。

『まぼろしの星』に行くまでに
金鉱を掘る男の話がありましたが
『ナルニア国ものがたり』シリーズの
『朝びらき丸、東の海へ』のストーリーを
ちょっと思い出しました。
『朝びらき丸』のほうで、
なんでも金にしてしまう泉を巡って
登場人物たちが対立するんですね。

『まぼろしの星』でも、金を巡って
登場人物たちが対立しています。
欲というのは、
未来においても
たいへんな動機になるものです。

「遊園地みたい」と登場人物が言うので
そのつもりで読んでいたら、
ラスト近くでどんでん返し。
驚きました。

それはそれとして、
父は「来ちゃいけない」といいつつ
自分の星の位置を教えたりして、なにを考えているのか判らない。
すなおに助けてくれと言えばいいのに(汗)

今の自分と重ねると

わたしはノブオほど勇気がないことが実感されます(笑)
主婦の座に甘んじているなあと。
あと、父と子の愛情には感動しました。
冒険をしなければ得られないものってあるね。

今後の自分に生かすとしたら

もっと自分の人生を拓くための応用力をつけたいです。

多様性と精神病(前回の続き)

詳細は、こちら。
https://note.com/aslia/n/n731ac38ccc3c
聞きかじりの知識を中途半端に教える人は多いですし
わたしも、自省しなければならない面は多々あります。

わたしは、Xさんを表彰したナイアが好きですし、
もちろんXさんを、リーダーとして尊敬してます。
障がい者なので、ツイッターでいろいろ言われて
大変らしい。
わたしも障がい者施設の教員を父とした人間として、
頑張ってもらいたいと願っています。

だからこそ、今回のことは、残念でなりません。
「要件を満たせば」
と言いますが、
たいていの普通の保険会社は、
「精神病患者」というだけで加入を断ります。
入れる会社自体も数少なく、
割高です。

日本は多様性を重んじなければ、と
口では言っていますが、
実際には、健康な人の声が大きく、
100人にひとりと言われる統合失調症など
精神病患者の現状は、あまり改善されているとは
思えない状況です。

この、「要件を満たせば」ということばには、
化粧品などのCMでよく見かける
「個人の感想です」
と似た効果があると思われます。

文句を言われても、それはあんたの理解が足りないからだ、
という態度ですね。
どれだけ要件を満たせば加入させてくれるのか、
それをハッキリ宣伝しないから、
誤解する人が増えちゃう。

リンクのブログにも書きましたが、
要件を満たすには、かなりのハードルを越えなければなりません。
ドクター運や健康運も必要です。
気軽にツイッターに、「個人の意見」を流してすむという
問題でもない。

SNSは閉じられた空間だから、個人の意見を言っていいという
ご意見もありますが、
シェアとかリツイートとかで拡散されることもあり、
発言には慎重さがなければならない、と
わたしは思ってます。

特に、精神病は病が軽ければ入れる、という発言は、
誤解を与える表現だと申しておきましょう。

ふとした言葉が拡散して炎上、なんて
よくあることですから。
わたしも気をつけます。

この記事は、noteにも書きました。
https://note.com/notes/n01637cde95e8/edit

運と分母と精神病(ツイッター炎上す)

またもXさんとやりあってしまいまいした。

聞きかじりの知識を中途半端に教える人は多いですが
かりにもナイアから表彰される人がこんなことじゃねえ……

ことの発端は、ツイッターの投稿でした。
Aさん(仮称)が、自分は精神病なので保険に入れないし
いろいろたいへん、と書いてあるのを、
Xさん(仮称)が、
要件を満たせば入れるし、精神病入院も対応してるよ、とレスしたんですね。

そこでわたしは、精神病患者にとっては保険に入るのは
ハードルが高いようだ、だれでも気軽に入れるもんじゃないと
答えましたところ、

Xさんは、だれでも気軽にとは言ってない、
症状の軽重によるし、軽い症状の方の方が重い症状の人より母数が多いわけだから、
入れる人の方が多くなるよと言っただけだ。
それにこれは、公式見解じゃないのでご了承を、とおっしゃいました。

それで、わたしは、ナイアで表彰されるような人が
なにをおっしゃるやら、と意地悪なことを書いたんですが、
それには理由がありました。
今から、その理由を言います。

みなさんは、医師免許がひとつしかないことを、
ご存じでしょうか。
ひとつしかないので、医師はなろうと思えば、
たとえ実際のスキルがなかろうと、
精神科の診療所を開くことができます。
(内科や外科もおなじですが)。

さて、保険に入るには、医師の診断書が必要です。
ヘボいドクターにあたった運の悪い患者は、
症状と現状が違っている診断を
下されることがあるでしょうね。

つまり、ほんとうは「軽い」のに「重い」と診断されたり
その逆もあるかも知れません。
精神病は、長い経験と信頼関係が必要な領域ですから、
セカンド・オピニオンを取るとしても
5年、10年のスパンがかかります。

それに、患者自身の「病の軽重」も
年月によって変わることがあります。
病状が安定している人なら、保険に入ることも可能でしょうし
「要件を満たす」ことも出来るでしょうが
精神病患者には、「ドクター運」や「健康運」も必要だったりするわけなのです。
やけどや骨折、ガンといった、ハッキリ目に見えるものでもありませんから、
患者はドクターを信じるしかなかったりしますしね。

そういうことを知らないのは、無理もないとは思います。
(わたしも知りあいの精神科のドクターから聞いたんだよね)
そこで、誤解とご不快を解くために、
この記事を書きました。

長文ですし、ツイッターで書く内容でもありません。
幸い、Xさんは、noteにも参加しておられるので、
それなら教えましょう、と思ったわけです。

わたしも知らないことが多いので、
この記事も事実誤認があるかも知れません。
あらかじめ、ご了承ください。

この記事は、

https://note.com/aslia/n/n731ac38ccc3c

とおなじものです。

終わりに寄せて

今日でこのシリーズも、ひとまず終わりになります。まだまだ語り尽くせない話がいっぱいあるのですが(たとえば、やっと完見した『ほしのこえ』の話とか、読了できた『鹿の王 上下』の話とか)、いつまでもズルズルやっていても意味がないと思いました。
これまで触れていなかったSFのテーマについて、この機会にご紹介します。
SFのテーマとして考えられるのは、

(さらに…)