キリスト教と日本の社会

二〇二三年四月二十一日(金)、サークルの人が、わたしに言いました。
「あなたが人に恵まれているのは、前世でいいことをしたからだね。これって仏教的かなあ?」と。

たしかに仏教的ですが、そのモトの考え方はインドにあったバラモン教の考え方だと答えておきました。

仏教は、お釈迦さまが始めた宗教ですが、母体になった宗教はバラモン教です。バラモン教によれば、今生きている間にいいことをすれば、来世で幸せに過ごせるという考え方があります。

だけど、考えてみると人間、いつもいいことばかりやっているわけにはいかないわけです。心の中で妬みやひがみなども起こすでしょう。そんなのも罪だから来世で幸せになれないと、閻魔大王が判決したらどうしますか。
来世で幸せという不確かなものではなく、いま、この時点で幸せになりたい。

釈迦は、そう考えて仏教を始めたのでした。
だから、人間は輪廻転生はするけれど、人間のうちに自覚して悟りを開けば、輪廻転生から脱却できるというのが仏教的思想だったはず(と、夫は主張しています)。

キリスト教には、輪廻転生という考え方は存在しません。死は一時的に眠っている状態であり、この世の終わりになればみんなよみがえって、神のさばきを受け、生前の行いに応じて天国と地獄へと振り分けられるんですね。

ところが、リインカネーションという英語が存在することからわかるように、キリスト教社会には、輪廻転生という概念があります。二歳のときに前世の記憶をしゃべった、というアメリカ人主婦もいるとのこと。わたしの周りにはそういう人はいませんので、半信半疑というところでしょうか。

キリスト教は、高圧的に人々を支配してきた長い歴史から、それに反発した西洋諸国がその支配から脱却しようとする試みがありますので、以前ほどパワーは持っていません。そのため、輪廻転生という考え方も、東洋から取り入れつつあるのかもしれません。

 

しかしヨーロッパには、キリスト教的遺産はあちこちに存在します。カトリック国のフランスでは、弱者救済活動が活発と聞いています。イタリアでは、コロナ禍のなか、自分が感染して死ぬのを判っていながら葬式のための儀式を執り行う司祭もいました。

彼らは、輪廻転生なんて眼中にありません。考えもしていないはずです。天国で神に迎え入れられ、とこしえの命をもらうために、努力しているわけです。死は避けられない運命かもしれないけれど、それを超えて身体がよみがえり、永遠に生きることができる。それがキリスト教の考え方の一つのはずです。

隣人を愛し、お互いを認め合い、仲良く暮らしていく世界が来れば、それが神の国ということなのかもしれない、とわたしは思っています。

さて、信教の自由を謳った憲法二〇条を改正しよう、という向きがあるそうです。個人の宗教の自由だけでなく、法人の宗教の自由も保障しようという考え方があるとか。

日本では、政治を「まつりごと」と捉える長い歴史があり、宗教と政治は一体化しています。輪廻転生が正当化される政治が行われるようになったら、どうなることやら……。

今はつらいけれど、いいことをすれば来世では幸せだよ。

そう考えれば、たしかに心の慰めにはなりますが、現実問題、いいことをしたから今、幸せだとは、よほどの善人でもなければ思えないでしょう。
幸せになる、ということは、どういうことなのでしょうか。

近年、フォークダンスが「男女間の悪影響を懸念する」として、禁止されたと聞きました。政治が庶民に与える影響は、非常に大きい。

過去には、地鎮祭や靖国神社参拝が憲法違反でモメたことがありますが、それもまた、宗教と政治が切り離せない存在だということのあかしです。

その上、日本の宗教観は、日本人の無意識レベルまで達しているので、それを乗り越えていくという発想にはなりにくい。自分は無宗教と言いつつ、道徳の時間で修身(神道的)教育をされている。それに疑問すら抱いていない。

これは、日本が島国だということと関係があるかもしれません。外の宗教と比較するという考え方、それ自体が普通の人には異質なのです。アメリカは人口のるつぼ、カナダはパッチワーク、日本は料理ですね。なんでも自分流にアレンジして食べてしまう。和魂洋才とも言います。珍しいものを口に合うものにしてしまう技術は大変すぐれていると思うのですが、そういう自分を客体化できていないのです。

憲法では、幸福の追求を保障しています。わたしの考えでは、幸せとは、個人だけでなく、周りをも巻き込んでいくものです。

だとすれば、広い意味でも、政治や社会と宗教は切り離せない存在です。
これからの時代は、外国人が流入する時代です。異質なものへの排斥運動も高まるかもしれませんが、だれもが同質であるという時代は終わりつつあります。一歩外へ出て、広がる景色を眺めてみませんか。

 

無宗教という名の自分の中の宗教を、客観視できるかもしれません。

「はぐれクリスチャンのひとりごと」は、今回でおしまいです。また機会があったら、新しく始めるかもしれません。その際は、よろしくお願いします。(了)

教会という場所

教会という場所

うちの教会の場合
おおむねプロテスタントの教会という場所は、牧師の説教を聞いて、賛美歌を歌って、献金(100円程度でOK)して、教会の近況を聞いたりして、1時間から2時間程度で終わるイベントの場所ですが、もちろんそこで終わるわけではなく、クリスマスにはキャンドルサービスをしたり、別施設では椅子取りゲームで遊んだり、クリスマス劇もしますねえ。(練習も、もちろんします)。

クリスマスソングの練習もした記憶があります。わたしはアルトを担当しました。『きよしこの夜』や『もろびとこぞりて』はもちろん、『牧人ひつじを』『神の御子はこよいしも』『荒野(あらの)の果てに』……。いろんな賛美歌を、この教会で習いました。

わたしには忘れられないことばかり。ただ、ふだんの教会は、知らない賛美歌を、ぶっつけ本番で歌うハメになることが多くて困ります(笑)。まあ、だいたい、賛美歌は歌いやすいので、なじみがなくてもなんとかなるはずです。

外国の教会
洋ドラでの教会も、いろいろです。『大草原の小さな家』では、オルガンがなくて困っている開拓民の話がありましたし、下手くそなバンドや歌い手で牧師を歓迎していた『アボンリーへの道』の教会のようなところもあるようです。うちの教会では、オルガンを弾きながら聖歌隊が讃美歌を歌いますが、カトリックでも聖歌隊が歌います。
牧師の隣には十字架が飾られ、牧師の説教をする演台のとなりには、豪華な花が飾られます。その演台に向かって、長椅子が三列ほどならんでおります。ここに信徒が座るわけですね。

牧師が教会を交代するわけ
教会では、牧師さんが説教をします。夫はこれをふしぎがりました。
「お寺では、住職が交代して説法をすることは無いんだが、キリスト教では違うんだね」
こんなところにもキリスト教と仏教の違い。虚を突かれました。

牧師にその件を質問しました。
【質問1】
なぜ牧師は交代するのか?

【回答】
いちばん分かりやすい答えは、
「牧師には『跡取り』とか『世襲』などいった考えはないから」です。

教会は人間のものではなくイエス・キリストのものであり、
牧師はあくまで「神から遣わされてきた者」に過ぎません。

仮に牧師の世界にも『世襲』という考え方があったとしたら、
教会が「キリストのもの」ではなく、
どうしても「○○牧師家族のもの」という風潮が出てきてしまうと思います。

教会を人間が私物化してはいけませんよね。

教会はイエスさまのものであり
教会において変わらないお方は、
イエス・キリストただお一人でなければなりません。

ちなみに、牧師は「定期的」に交代するわけではありません。
教会によっては6年、10年などの任意の任期を定めている教会もありますが、
牧師は「神から遣わされ、神によってその任を解かれる」まで在職するものですから、
前もって「○年で交代する」ということを決めるのは相応しくないと考えられています。

【質問2】
長老は普段何人いるのか。

【回答】
これは教会の規模や考え方によって異なります。
当教会は7名の長老がおります。

【質問3】「教会付属のお墓」について。仏教にはお寺のそばにあるけど、教会にはないのでは?
【回答】
一般の墓地の中では目立たないだけで、
それなりの規模の教会でしたら
ほとんどの教会は「教会墓地」を所有しています。

小規模な教会である場合や、
都市部の教会などの場合は、
いくつかの教会や教派が協力して墓地を購入し、
共同墓地としている場合もあります。

いずれにいたしましても、
教会墓地というものは、目立たないだけで存在しております。(以上、回答おわり)

ちなみにお墓に供えるのは、神道だと榊ですが、仏教・キリスト教はお花です。たまに仏式のお墓に、酒やお菓子などが供えられたりしていますが、キリスト教はしません。そこも違いますね。

 

 

 

 

地鎮祭と教会

MAROさんのこと
最近、MAROさんというキリスト教右派(福音派)の著書を読む機会がありました。
『世界一ゆるい聖書入門』『世界一ゆるい聖書教室』などの著者で、ノン・クリスチャンから入信した人です。Twitterでフォロワーがめっちゃいるらしい。
この人の聖書説明は、さすが福音派だけあって、現代的で面白かったし、クリスチャン二世のわたしも知らなかったことをいろいろ書いていました。

教派の違いによる違和感
わたしは教条主義の長老派ですから、原理主義の福音派のように悪いことはなんでもかんでも悪魔(サタン)のせいにはしませんし、聖書の使徒たちについてもさほど詳しいわけではありません。うちの教会(長老派)の牧師に言わせると、なんでも悪魔のせいにするのは間違いだとは思うけど、キリストの道に進もうとすればするほど妨害が多くなる、それは自分が悪いというだけでは説明がつかないものがある、というんですね。

はぐれクリスチャンとして
わたしは、キリスト教の道にまっすぐ進むほど純粋にはなれません。生活も体面もあるし、なによりキリストの道がなにかがよくわからないんです。
父の影響で聖書学的な聖書話を書いていますが、これも古い学説がもとになってる上に、いまの教会の現実にあっているかどうかもわかりません。長老派の言うキリストの道と、聖書学的なものとは違う気もする。
はぐれクリスチャンとして、現実を見据えつつ、理想を追いかけていく。
それがわたしの出来るせいいっぱいのこと。
その意味では、いろんなものが勉強になって、わたしはとても充実しています。

そんなこんなで、MAROさんの記事は、発見だらけで面白かった。中でもいちばん面白かったのは、キリスト教は地鎮祭をしない、という記事でしょうか。

地鎮祭
MAROさんによると、日本では起工式に、地鎮祭をして土地の神さまをなだめる習慣があるのですが(それは知ってました)、キリスト教ではそれはない。その代わり、土台に聖書を埋めて、その上に教会を建てるという儀式をする。

念のためにネットで調べてみました。カトリックでも地鎮祭はしないようですが、それだと日本の場合、大工さんが嫌がるので、聖水を撒いたりするとか……。うちの長老の話では、カトリックでは『祝福式』というのを起工式(定礎式)のときにするらしいです(手引書に書いてあるそうな)。
うちの牧師にも聞きました。それによると、クリスチャンの家を建てるときや、教会を建てるときに起工式があるが、その際、必須ではないが、聖書を土の中に埋めることもある。祈りの一つの形だと言うことでした。

外国の場合
たしかNHKで放送していた洋ドラ『アボンリーへの道』では、長老派の教会の地下に宝物が埋まっているという伝説がアボンリーにあって、主人公のヘティさんが、長老派の教会の屋根修繕のためにその宝物を、牧師といっしょに掘り起こす話がありました。
いざ、宝箱を開けてみると、そこに入っていたのは、教会設立時代の聖書だった、というオチでした。聖書が宝物というところが、洋ドラですね。
起工式や定礎式に聖書を入れる話は、長老もわたしも聞いたことがなかったので、牧師さんの話とこのMAROさんの本は、とても勉強になりました。

なぜ聖書を使うのか
聖書にはイエス・キリストが弟子のペテロに、「わたしはあなたの上に教会を建てる」というセリフがあります。これをカトリック的には、ペテロ自身が教皇になったと解釈し、教皇がいちばん偉いことになってますが、プロテスタント的には、ペテロの信仰の上に教会を建てることになっているのです。
つまり、プロテスタントが教会を建てるに当たって聖書を使うというのは、
『神への信仰の上に教会を建てる』
という意味も含まれているとわたしは思います。牧師は、祈りの一つの形で必須ではないと表現しましたが、やはりこだわる人はいるんでしょうね。

 

 

キリスト教とご利益

ご利益
お寺や神社には、「恋愛成就」「家内安全」「学業成就」「商売繁盛」などと言ったさまざまな「ご利益」という考え方があります。
キリスト教には、「ご利益」という考え方はありません。神にお願いすることは、自分の言うとおりに神さまを動かそうとする身勝手さに通じるんだというのが、キリスト教の考え方です。言って見れば、神さまは都合のいい魔法使いではないのです。

祈り方
キリスト教の祈りは、こんな感じです。
「天にまします我らの父よ
願わくばみ名を崇めさせたまえ
み国を来たらせたまえ
みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ……」

神の心が天に通じるように、地上にも通じますようにってことね。
言い換えれば、神の意志が地上をあまねく行き渡るように、というのが、キリスト教の考え方。
この祈りには、続きがあります。主の祈り、として検索をかけたら、すぐ出て来ます。

信仰の仕方(わたしの場合)
こんな祈りがある以上、神はクリスチャンにいいことしかしないか、というと、ノアの方舟でもわかるように、怒り狂って人を滅ぼすコワイところもあります。
わたしの場合は試練に直面したとき、その時点では、恐ろしいこと、つらいことでも、けっきょくは神は自分を救ってくれると信じているからこそ、お祈りが出来るわけです。自分に必要な物がなにか、神はご存じだとイエスは言いました。祈ることで、それがなにか、ハッキリするかもしれない。

もちろん、わたしでも、「○○しますように」と祈ることはあります。病気がなおりたいクリスチャンなら、やっぱり「癒やしてください」と願ったりもする。
でも、これは、「わたしは病気を治したいんです」、と神さまに告白しているだけの話で、病を治すかどうかは神さまの決めることだから、神さまの思うとおりにしてくださいって感じですかね。

教会のふるまい
だから、「教会でお祈りしたから大丈夫だよ」とクリスチャンどうしで励まし合ったり、クリスチャンではない人を、「祈れば治るから教会へおいで」と誘ったりしませんし、まして「教会に来ないと病が重くなるぞ」なんて脅したりしません。
キリスト教のご利益、つまりメリットという意味でいうならば、教会に行って礼拝して、神さまと交流すること自体がキリスト教のメリットだと言えるでしょう。
そのため、悪霊とか霊障で困っている人には無力です。

エクソシスト
カトリックは『エクソシスト』という専門家がいて、三位一体の神の名のもとに悪霊を退散させる、という現世利益の集団もいるそうですが、このエクソシストについては、キリスト教では公式には「いない」ことになっています。
悪霊退治は迷信かイエスがすることで、われわれがそれをするのは専門外というのがふつーの信者の一般的な態度だったはず。
そもそも、人間は死んだら天国か地獄か煉獄かへ行っちゃうので、地上にとどまるという考え方はキリスト教にはありません。超常現象などで代表される、現世利益と言う考え方は、キリスト教にはないのです。キリスト教から生まれた科学も、同じスタンス。
その話を義母にすると、彼女は、
「役に立たん宗教じゃね!」
一刀両断にしてくれましたが、神さまを都合のいい便利屋みたいに考えて、祈っておきさえすればそれで安心、というのもどうかと思います。

タタリ神とキリスト教
古来、日本の神さまは、菅原道真みたいに、天災や疫病などをもたらす、コワイ面もあったはずです。タタリ神ということで、敬して遠ざける面もあったと聞いています。それが、いつの間にか、神社の境内には滑り台が置かれ、幼稚園が設けられ、「優しい神さまたち」というイメージになっている。優しいだけの神さまって、だらしない面もあるんじゃないかな。
役に立つとか立たんとかを越えてるのが、神さまという存在、とわたしは思うのですが、みなさんはどう思いますか?

 

 

 

カトリックとプロテスタント(後編)

キリスト教とはなにか――カトリックとプロテスタントの違い(後編)

本題

「カトリック」と「プロテスタント」はどちらも「西方教会」の教派ですが、違いはいろいろあります。

第一の大きな違い
ローマ教皇の扱い
カトリックではローマ教皇を自分たちの教会のトップであり、特別な存在であると扱いますが、プロテスタントでは「人間は神様以外みんな同じ」と考えるのでローマ教皇を特別な存在として扱うことはありません。

第二の大きな違い
マリアの扱い
イエスの母マリアについても、同じ理由でプロテスタントでは「イエス様を産んだとはいえ、一人の人間でしかない」と捉えるのに対し、カトリックでは「聖母マリア」という特別な存在として捉えます。ですから教会に行ってみて、マリア像があったらカトリックの教会、なかったらプロテスタントの教会と判断することもできます。

第三の大きな違い
聖職者の呼称
しかし、両者の最も簡単な判別方法は、聖職者の呼び方です。カトリックでは「神父」とか「司祭」と呼ぶのに対し、プロテスタントでは「牧師」と呼びます。
実際には呼び方だけでなく、役割自体も違うんですけれど、それは少し難しい話で長くなりますからここでは触れていません。

第四の大きな違い
ミサか礼拝か
また日曜日にカトリックでは「ミサ」を行いますが、プロテスタントでは「礼拝(れいはい)」をします。ですから教会の看板に「ミサ」と書いてあるか「礼拝」と書いてあるかでも、ほぼ100%見分けることができます。
ほかにもまだ違いはあるのですが、プロテスタントの中にも「カトリックに近い」教会もあれば、「かなり違う」教会もあるので、なかなか一般化して一概には言えないところがあるんです。
まあ、詳しくは、実際に教会に行くのが一番でしょう。いろんな所へいってみてくださいな(わたしは仏教の方がいいと思うけど)。

さて、前項で触れたように、キリスト教の共通項として三つあることは、ざっくりご説明しました。再度記述します。
キリスト教の定義にも多種多様なものがありますが、共通項には、
「イエス・キリストを唯一の救い主であり、神であると認識している」
「三位一体」という概念を大切にしている
「聖書を唯一の正典としている」
特にわかりづらいのが、「三位一体」という考え方です。

三位一体
父なる神(ヤハウエ)、子なるイエス、聖霊が、ひとつの神として考えられているということです。聖霊といっても、ゲームやファンタジーなどに出てくる火の精霊水の精霊などといったものではなく、神そのものという概念です。

真言宗との類似
この考え方について、仏教に似た宗派があることを、わたしは夫から知りました。
真言宗の、大日如来です。
夫によると、大日如来は、さまざまな形を取って人々の前に現れるらしい。
彼の解釈では、神(大日如来)も、ナナメから見たり、ま正面から見たり、後ろから見たりして、いろんな面がある。それがそれぞれ、違う神さま(商売の神さまとか、恋愛の神さまとか)に見える。しかし本質は、大日如来。
その考え方でいくと、イエスがヤハウエだったり聖霊だったりするのも、違う面から見ているからかもしれません。ひとつの神を色んな面から見ている。

アメーバとしてのヤハウエ
わたしは、さらに考えを進めて、三位一体=アメーバみたいな神、と考えています。
聖書を正典とするキリスト教では、神は一つにして三つと考えられていますが、文字にできない部分って在るような気がします。
わたしの知る限りでは、聖霊という文字が出て来たのは、新約聖書の終わりごろあたりからです。言って見れば、それまで聖霊なんて、聖書の眼中になかった。
当然、時代が違えば、神だって違う形を取ることだってあるだろうし、人々の見方や考え方も、違ってくるでしょう。聖書は起承転結のある完結された本になっているので、これに付け加えることは何もないのでしょうけれど……。
わたしの信仰は、いわゆる異端かもね。(ニヤリ)

おまけ
4月9日は、キリスト教の重要なお祭り、復活祭(イースター)です。ウサギさんとどう関係があるか、などの記事は、こちらを参考にしてください。
https://www.jalan.net/news/article/528049/

 

 

 

 

 

 

 

 

カトリックとプロテスタント(前編)

キリスト教とはなにか――カトリックとプロテスタントの違い(前編)

 

三位一体

この際、キリスト教の定義がどんなものなのか、わたしなりに考えたことを述べましょう。
キリスト教の定義にも多種多様なものがありますが、共通項には、
「イエス・キリストを唯一の救い主であり、神であると認識している」
「三位一体」という概念を大切にしている
「聖書を唯一の正典としている」
シンプルですが、けっこう難しいことを言っています。のちに詳細を書くつもりですが、文字にするのも限界があります。実際に教会に行って、質問とかされるといいかもしれません。

原罪

キリスト教では、アダムとイブの話から、ひとつの概念が2000年に亘って受け継がれてきました。
それは、アダムとイブが神の禁じた木の実を食べたせいで、神の警告どおり死ぬ身になってしまったこと、同時にセックスを覚えたこと、この二つのせいで人間には原罪というものが産まれたというのでした。
イエスは、神の霊を宿した処女マリアから生まれたために、原罪を免れ、人類の罪を背負うために一度死に、三日三晩ののちに甦った、そんなイエスを信じることで救われる。これがキリスト教の根幹のひとつだというのが、わたしの認識です。

教派はどのように分かれたか

結論から
ざっとまとめれば「東が正教会、西がさらに分かれてカトリックとプロテスタント」ということです。
※キリスト教の教派はこのほかにもありますが、複雑になるのでここでは大きく三つに分けてお話します。

各論
まずは、教派がどのように成立したか、大ざっぱに説明してみます。

カトリック
始まりは、イエス様とその弟子たちが建てた「キリスト教」です。
(キリスト教においては、イエスは神そのものなので、キリスト教の開祖または教祖ではありません。詳細は次回以降)。
三世紀ごろにキリスト教はローマ帝国の国教になりましたが、その頃から成立しているカトリックは、ローマ教皇を中心にした「普遍的」(カトリック)な教会で、教皇はイエスの最初の弟子ペテロの後継者なのだとか。

東西教会
このローマ帝国が東西に分裂。そのため、教会も東西に分かれることになりました。
やがて東西の教会は別々の教義を持つようになり、1054年にそれぞれの教会のトップがお互いに「君らはキリスト教じゃない」とケンカ(相互破門)して、「東方教会」と「西方教会」に決定的に分裂しました。

これを大シスマといいます。「大シスマ」という言葉は世界史の教科書にもたぶん太字で書いてあります。ちなみに、「シスマ」とはラテン語で分裂という意味です。

この「東方教会」が今の「正教会」で、ロシア正教・ギリシア正教などの「◯◯正教」と呼ばれる教派です。

プロテスタント
「西方教会」はその後、有名なマルティン・ルターさんの宗教改革により、「カトリック」から「プロテスタント」が分かれました。

詳細;
1517年、教皇レオ10世が販売した贖宥状(しょくゆうじょう;免罪符)に対し、ドイツの神学者マルティン・ルターが「95箇条の論題」を発表してローマ教皇を批判。 これに賛同する人たちがルター派(プロテスタント)を結成してこれまでどおりローマ教皇を奉じる人々(カトリック)と自分たちを区別し、対決姿勢を強めました。

もともと免罪符は、サン・ピエトロ寺院をつくる財源として売られたもので、それを買えば原罪が精算されるというものでした。おカネで信仰を買うのか、とルターが反発したわけですね。
一説によると、寺院の建設に携わる貧しい人々の給料のために売られたっていう話も、聞いたことがあります。物事は一面ではないね。

正教会とカトリックもケンカしてしまいましたが、これはローマ教皇に対する反発だったと聞いています。

この三者はとても仲の悪い時期もありましたが、今ではいろいろ違いはありつつも「まあ、でもお互いにキリスト教だよね」くらいには仲良しになっています。

 

神道、仏教、キリスト教を俯瞰する

神道、仏教、キリスト教は、ぜんぜん違う宗教です。神道には、日本の民衆と天皇の先祖である神々の物語である古事記・日本書紀が存在します。天照大神とかが出てくるヤツですね。
日本古来の民族宗教なので、仏教が日本に入り込んできたとき、朝廷内で、どっちを選ぶか内乱が起きました。しかし結局、神仏習合ということで、仏さまも神さまもいっしょだよということに落ち着きました。実に日本らしいんですが、明治時代に明治天皇から、神仏分離ということが発せられたのでした(実効性はなかったけど)。
なぜ神仏分離なのか。天皇の先祖はブッダではなく、天照大神だからです。なので、それまで宮島でお経をあげていた千年近い習慣はなくなりました。政治と宗教は身近です。政治に無関心だと、しっぺ返しが来ます。

①神道って、どんな宗教?

わたしの見るところ、穢れと清めがあり、神社のお参りに二礼二拍一礼したりします。神官がいて、巫女がいて……、でも、教義がない。
日本人の習慣にシッカリ根付いていて、たとえば自動車を買えば自動車にお祓いをしてもらったり、お守りを買ったりします。受験が近づけば、太宰府などに受験のお守りを買ったり絵馬をつけたり。えびす様を店に飾る商店や、白い布袋をしょった大黒さまの彫像を飾った宿もあります。ゲンを担がせて貰おうと、稲荷神社におまいりする芸能人もいますね。
このように、日本は現世利益の多神教です。宗教じゃない、という人もいますが、神さまの前に手を合わせるときは、みんな真剣です。わたしは個人的に、神道は宗教だと思ってます。

②仏教の神さま観

帝釈天とか、毘沙門天とか、梵天などは、仏教の神さまです。つまり仏教も多神教。昔の日本人が、仏教を受け容れやすかったのはそのためかも。

③キリスト教は、一神教です。

ヤハウエ神のみを信じる宗教です。ヤハウエとは、ヘブライ語で、「在って在るもの」という意味。ヤハウエ以外はニセモノの神さまということで、それを狂信するあまり、多神教のマヤ文明は、「邪教」となり、スペイン・ポルトガルに滅ぼされてしまいました。
その一方で、ひとつの神を信じているからこそ、ほかの民族も受け容れられるという一面もあります。イギリス人はゲルマン系ですが、ラテン系のフランス人と(本心はどうあれ)同等だと思っています。日本人が外国人を、どことなく畏れていたり、蔑視したりするのは、ジャパニーズが日の本の国の人間で特別な存在なので、それ以外は受け容れがたいと無意識に思っているからかもしれません。

ほかのキリスト教の特徴

愛でしょうか。
たいていの日本人は、結婚式はキリスト教式を選ぶと聞いています。言って見れば日本においては、キリスト教は、ロマンスの神さまってとこかもしれません(熱心なクリスチャンが怒るかも……)
その反対に、仏教は死がつきまといます。法事やお葬式には仏式を選ぶ人は、世の中にはまだまだたくさんあります。ちなみにキリスト教は、お葬式に賛美歌を歌って送り出す教派もありますが、法事はありません。

カウンセラーの起源

カトリック系の聖職者、つまり神父が、信者の悩みや犯した罪を打ち明けること(懺悔)を聞いた歴史から、カウンセラーという仕事がはじまったとも聞いています。マザー・テレサが恵まれない人たち、特に死に直面した人たちのために働いているのを見た人が、「こんなことは行政に任せりゃいいじゃん」と言ったら、彼女は、
「わたしどもは行政の代行サービスをしているのではありません。行政の出来ない愛を実行しているのです」と答えたことも有名です。(また、彼女は、愛の反対は憎悪ではなく、無関心だとも言っています)。
ブッダは、愛は苦しみであると説いています。愛すればこそ、報われない苦しみがある。これはとても対照的な考え方であり、深い人間洞察があると思います。

PS

今月はイスラム教のラマダンです。その詳細を知りたい、という方がおられました。
いろいろ載っているサイトを見つけましたので、
ご紹介いたします。

イスラム教におけるラマダン:危機管理の注意点は?

 

 

 

 

 

仏教とキリスト教

価値観の相違

 

わたしが正人とデートしていた頃、自分はプロテスタントのクリスチャンだと恋人に打ち明けました。すると夫は、「自分は真言宗の仏教徒だよ」と教えてくれました。
そこで話が盛り上がりました。夫はキリスト教にけっこう詳しかったのに、わたしは仏教にはウトかったこともあって、なにもかも面白かったのです。

仏教の教え

 

仏教は、釈迦が始めたことは知っていました。二十九歳のときに出家されています。お城の東の門を出られたときに老人を、南の門から出られたときには病人を、西の門から出られたときにはお葬式、つまり死者を見られます。そして北の門から出られたときに出家し道を求める人に出会われています。それが出家の動機だったといわれています。そこで、
「キリスト教では、神について語ることが多いけど、仏教には創造主っていないでしょう」
「いや、創造主はいるけど、そんなに目立たないね」
夫は平然としています。
キリスト教にとって自分を創ってくださった創造主は大切ですが、仏教徒にとっては違うのです。目が点になりました。

 

仏教とキリスト教を比べてみる

 

 

仏教とキリスト教を比べてみましょう。仏教は、人間の苦しみから人々を救おう、と始まったそうですが、キリスト教は、イエスを信じることで苦しみから救われると説きます。あらゆる苦しみも痛みも、イエスを信じれば軽くなると言うのが主な教理。四苦八苦やら一蓮托生やら因果応報やらいろんな単語を覚える必要ナシ。
ところが、カトリックやプロテスタント、ギリシャ正教ロシア正教に聖公会など、いろんな教派があるわけです。同じ神さまをあがめているのに、なんでこうなるのかは、聖書の解釈によって違ってくるからでした。

 

各教派解釈の違い、ざっくり行きます。

 

 

聖書では、イエスは離婚を禁じたとあるので、カトリックの支配した中世欧州では法律も、離婚できる手続きがなかったし、離婚しようと画策するだけで追放されたり、ヘタしたら殺された時期もありました。
長い支配で堕落したカトリックに抗議(プロテスト)した人々は、プロテスタントと呼ばれています。これは当時、たいへん勇気の要る行動でした。(ガリレオの地動説のお話は、聞いたことがあるでしょう)。しかし、賛同者が次々と現れ、西方キリスト教はカトリックとプロテスタントに別れ、険悪に。二百年以上も経つ一九八〇年代には北アイルランドとイングランドのような宗教戦争もありました。ですが、二〇世紀末に、当時の教皇とプロテスタントの代表が仲直り。末端は納得してないけどね(笑)  ロシアの正教会では、十二使徒の肖像画がありまして、これを「イコン(英語でアイコン)」と呼んでいます。コンピュータ上の小さな絵をアイコンと呼んだりするのは、このことからです。

 

 

仏教徒だって宗教戦争したことがある

 

 

仏教が宗教戦争をしたなんて聞いたことがないぞ、と夫に言ったら、
「たとえば一向宗ってのもある。当時の信長に対抗した浄土真宗の武装僧侶軍団だ」
と教えてくれました。
日常から、ちょっと離れた価値観があるのが、宗教の特徴だとわたしは思います。
とかくこの世は、カネや地位、権力のあるものが勝つと決まっていますが、宗教の世界では、別の価値観がある。権力者には、それが気に入らないのだよ。

 

 

四苦八苦をキリスト教ではどう捉えているか

 

 

愛する人が手に入らない、憎い人と一緒に働かなければならない――といった苦しみを、キリスト教ではどう解決しているか。神がいずれ、自分を救ってくれると信じること。それがひとつの解決法です。キリスト教の根幹である「愛(アガペー)」、それは、イエスが救い主であると信じることから発生するはずなんですが、愛というのはややこしくて、トラブルのもとでもありますね。
仏教では愛は苦しみという解釈を取ってます。ていうか、世の中苦しみだらけというのが仏教だったりします。現実的だな。

 

新約聖書のあれこれ

 新約聖書にはなにが書かれているか

要約:

新約聖書は、大きく分けて三つあり、ひとつ目はイエスの言行と死、復活
二つ目が使徒たちの活躍と書簡、三つ目が黙示録です。
  イエスの言行と死が書かれているのが、いわゆる『福音書』。
順を追って説明します。

詳細:

 福音書内容

①マリア

聖霊により、処女で受胎したマリアさんは、子どものように事実を受け容れ、子どものように信じる心を持っていると言うことで、高く評価されています。いきなり身に覚えが無いのに受胎したと言われたら、ふつうの人はうろたえるんですが、マリアさんはぜんぜんそんなことがなかったんです。
で、臨月を迎えたマリアは、徒歩で約1日かかる距離を移動しています。というのも、当時のローマ皇帝が、『戸籍を作るために住民投票をするから、みんな自分の出身地に帰って登録するように!』って言い出したからです。ヨハネといっしょに故郷のベツレヘムへ帰る途中、マリアは産気づき、馬小屋でイエスを出産します。

 ②バプテスマのヨハネ

バプテスマとは、洗礼という意味です。バプテスマのヨハネというのは、当時その地では有名人でした。彼は、「神の国がもうすぐ来るから、悔い改めなさい」と言って、人々にバプテスマを授けていました。イエスも彼から受洗しています。
わたしたちクリスチャンは、クリスチャンになる洗礼の時に、このバプテスマを受けます。両親がクリスチャンだと、赤ん坊に受けさせます。その際、牧師から、神の言葉として、
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」
という、聖書の言葉を読み上げるのです。

 ③イエスの奇蹟

イエスは数々の奇蹟を行いました。最初の奇蹟は、意外にも酒造り。カナという場所で、結婚式に参加したイエス。ところが、大変まずいことに結婚式の途中でワインがなくなってしまいました。当時の結婚式は一週間くらいぶっ続けで宴会を行うものでしたが、その途中で料理やお酒が足りなくなることは、一家の「末代までの恥」だった。そこでイエスは自ら特上のワインを作り、披露宴のホストを助けました。これにより一家は、「末代までの誉れ」になったのです。
イエスはこのほかにも、死人をよみがえらせたり、病人を治したり、パンを増やしたりと、さまざまな奇蹟を行いました。

 ④皆がイエスを裏切った

3年ほど旅を続けて、イエスはイスラエルの首都エルサレムへやってきました。エルサレムには、パリサイ人という「イエスの宿敵」がいました。イエスが折に触れて、
「君たちはわかってない! 君たちは偽善者だ!」とその権威を否定したので、イエスを忌々しく思っていたのです。さらにイエスがだんだん民衆に慕われるようになると、
「あいつめ、おれたちをないがしろにして……」
とほとんど殺意に近い感情を抱くようになっていました。
イエスはエルサレムに入りました。数日後の木曜日に「最後の晩餐」が行われた際、イエスは、「このなかにわたしを裏切るものがいる!」と言いました。そしてその言葉どおり、ユダはイエスを銀貨三〇枚でローマに売り、ほかの弟子たちもローマ兵がやってくると、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。

 

 ⑤復活

こうしてイエスは十字架にかけられ、なくなりました。翌日は土曜日で安息日だったので、お墓参りができなかったんですが、日曜日に弟子の一人だったマグダラのマリアたちが墓を訪れると、イエスの姿がない。すでに復活していたのです。

福音書のあらましは、ざっとこのとおりです。

 

 

 後日談

話はこれで終わらなくて、復活を聞いた弟子たちがあやぶみ、イエスが再来したことから復活を確信して伝道をはじめる話が『使徒行伝』に載ってます。この話の中に出てくるパウロというひとは、苛烈にクリスチャンを迫害していましたが、イエスの幻を見てから心を入れ替えてキリスト教の基礎を作ったのでした。
弟子たちへの迫害は続き、パウロたちも投獄されてしまいます。獄中から手紙を出したのが、「手紙シリーズ」と呼ばれる書簡類で、『神は愛なり』とか、『神は乗り越えられない試練は与えない』といった言葉が載っています。

黙示録

これまでは、イエスとその死、そしてその直後の人々の話だったんですが、新約聖書の最後には黙示録(この世の終わりと最後の審判の話が中心)という、未来を暗示させる記述が載っています。ハルマゲドンという言葉は、この黙示録から出ました。。この記述の中に、福島の原発事故を暗示させる記事が載っているという人もいます。

 

 

キリストが生まれるまで

前文

聖書には『旧約聖書』と『新約聖書』があることは知っておられる方も多いと思います。 そのうち『旧約』のほうは、ユダヤ教の神話、歴史書、予言、詩などがおさめられています。その中で、イエス・キリストに関係のあるものをピックアップしていきましょう。

アダムとイブは、名前だけはご存じな方もおられるでしょう。アダムは人間の祖ということになっています。そのあと、ノアの方舟で洪水が起こり、人類はノア以外は全滅。だから人類はノアの子孫だとも言えます。

では、ユダヤの祖はだれなのか。ユダヤ人の民族的神がなぜヤハウエなのか。

ユダヤと旧約の起源

ノアの時代より前に、アブラハムという人がいました。このアブラハムが、神と契約したからなんですね。
神はアブラハムを試すために、一人息子のイサクを犠牲に捧げよと命じたんです。
通常、丘の上の祭壇で羊を焼くのが神へのお供えなのですが、その子羊の代わりにイサクを捧げよ、というのが神の命令だったんです。
で、仕方がないので、アブラハムはイサクを連れて丘の上へ登っていく。イサクは頭のいい子なので、父が子羊を連れていないのを見て、「犠牲の子羊はどこですか」などと聞いたりするんです。

アブラハムは幼子のイサクを祭壇に載せました。たき木をセットして、いま、まさに火をつけようとした瞬間に、神の声が聞こえる。待て、という声ですね。
アブラハムの信仰心、忠誠心を試して満足した神は、契約を結ぶんです。
我が子イサクを犠牲にしようとしたアブラハムの信仰心を認めて、神はユダヤ人の繁栄を約束する。これが、『旧い約束』、『旧約』ってことです。

 

その後のユダヤの繁栄ーダビデ登場

 

この神とアブラハムの契約を出発点として、アブラハムの子孫たちの繁栄が始まります。
イサクの子、アブラハムから見ると孫にあたるヤコブは、神さまからイスラエルという名前をもらいます。そのイスラエルの十二人の子ども達から、十二部族が興る。ユダヤ人は、その十二部族から出ました。

その後、モーセによる出エジプトの民族大移動、エリコの戦いなど、色んな事が起こりまして、十二部族がバラバラになり、周辺のペリシテ(ペルシャ)人などに負けるようになってきた。

バラバラになった十二部族をまとめるには、力と人徳を持った人物が必要だというわけで、サムエルという預言者が神さまにお伺いをたてると、ベツレヘムへ行けと言われる。

そこで行ってみると、ダビデという美少年がいた。しかしこのダビデ、まだ子どもなんですね。

ところがこのダビデは、石投げの名人でした。ペリシテの大将、巨人のゴリアテを石ころひとつで倒してしまう。それで十二部族が結束して、ユダヤ王国を築くことになります。

そしてダビデは、サムエルに香油で頭を清められて王になることを祝福されます。

 

このように、力ではなく神によって王になった人のことを、ヘブライ語で「メシア」と呼びます。キリストというのは、ギリシャ語の「メシア」にあたる「クリストス」から来た言葉です。ちなみに新約聖書は、全編ギリシャ語(コイネー語)で書かれています。

ユダヤの没落とメシア待望

さて、ダビデ、およびその息子のソロモンの頃に絶頂を迎えたユダヤ王国ですが、やがて北側がイスラエルという国になり、たちまちアッシリアに侵略される。南側のユダヤ王国も、バビロニアに滅ぼされてしまう。

その後、長い間ユダヤ人たちは、バビロニアで奴隷として苦難の日々を送ることになります。バビロン捕囚と呼ばれるこの時期に、ユダヤ教は確立しました。民衆は、いずれダビデのような英雄がやってきて、この苦難を救ってくれると、はかない希望を抱きましたが、それは実現しにくい夢でした。

そこで、旧約聖書の『イザヤ書』に出てくる、悲劇のヒーローというモチーフが民衆の間で流布するようになりました。この悲劇のヒーローは、世間から誤解され、鞭打たれ、ひっそりと死んでいく。しかしそのことによって世界を救うのです。

つまり、ダビデの再来が期待できなくなったので、アブラハムの息子イサク、すなわち犠牲の子羊が現れて、神との契約を結び直すという考え方ですね。

イエス・キリストは、そのモチーフを実現した人だったのです。イエスが十字架に架かることによって、新たな契約が結ばれた。だから、『新約』というのですね。しかもこれは、ユダヤ人だけでなく、罪ある人も罪なき人も同じように、全人類が救われるという契約だったのです。