現代のファンタジー論

2019年6月25日(火)中国新聞。
三次市三次町に4月26日にオープンした妖怪博物館の来館数が
5万人を突破した。

というわけで、今回もリアルとファンタジーについて考察してみます。
今回は、井辻朱美の『ファンタジーを読む』 の影響が多々あります。
あの本は、わたしにはツボでした、ファンタジーとは何か、という根源的な問いかけが
最近になって変容しているという論説が特に面白く、興味深く読みました。
ほんとは井辻朱美せんせにファンレターを書こうかな、
と思ったんですが、
底の浅い論説を書くことになりそうなのでやめました(笑)
評論家、哲学者にはかないません(惨敗)

この新聞の記事では、妖怪博物館のデジタル展示などについてもちょっと触れてありました。
来館者は家族連れでやってきていたようですが、
『ファンタジーを読む』 においては、「日常ならざるもの」 に関心を向ける人たちは、
古来、「変わった人たち」であるかのように書かれています。
また、トールキンが作った創作、『指輪物語』では、世界をゼロから作ったあたり、
まったく新しい手法だったことから、それがファンタジーの行く末を決定的に変えたと
書かれています。
そして、最近の特殊撮影や映像技術で、ファンタジー小説がリアルに
「見えるもの」
として表現できるようになったことで、
ふつーの人たちも、ファンタジーを 「逃避小説」 ではなく、
まるでテレビのチャンネルを切り替えるように「見える日常」としてとらえられ、
異世界が身近に感じられるようになった、とありました(記憶モード)。

実際、妖怪なんて古来の日本人は、家族連れで見るようなものじゃなかった。
昔話では、こわーくておどろおどろしい存在だったんです。
それが、江戸時代の絵描きが絵を描くことで「なーんだ」 ってことになって
日常化されてしまった。と、書いてあった記憶がある。
その論説が正しいように見えるのは、新聞記事が傍証していることから明白ですが、
三次の博物館がほかとちがうのは、
デジタル展示で妖怪を 「創り出す」 ことができることでしょうか。
自然界の怪異への驚き、崇敬という気持ちは、そこにはみじんもありません。
自分はなんでもできるという5歳児的万能感に根ざした、
怪異へのアプローチってところです。
神を信じるわたしにとっては、ヒヤヒヤものなんですけどね。

妖怪にせよ、妖精にせよ、人間が無意識界から創造した、という側面があるので、
子どもたちが勝手に色々書くのは自由でしょうが、
なんでもできる錯覚から、子どもっぽさから脱却できず、
現実に対処する能力を失った人々を描いた悲劇的な作品が
「君の膵臓を食べたい」 ではなかろうかと推察します。
泣けるそうですが、わたしの場合は父を思い出すので見てません(笑)

21世紀の現代。厳しい現実から逃避出来る安全な地(つまり親の援助)が用意されたりする。
立ち向かう人たちはブラック企業に飲み込まれていくという図式があったりして。
生きる力は、企業に搾取されるカネづるになっている。
そこから逃げ出し、追われて森に逃げ込んでも、悪魔を裏切ってくれるはずの援助者は頼りにはなりません。
心地よい夢、自慢できる写真や動画が新たな資産を生んだりします。

カネにまみれて美化された自然を見ながら、
「ジブリはいいなー」「水木しげるもいいなー」
とか言ってるかもしれない妖怪博物館。
なにか、大切なものを忘れてませんか。

現代のファンタジーって、なんだろう。

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