人気者になりたい!

旧約聖書の人気者と言えば
ダビデです。
彼の人物像を、今風に考えてみると、
人気者になれるコツがわかるかも知れません。

そこで、分析してみました。
1)外見
ダビデは、眉目秀麗な羊飼いだったそうです。
そこから考えるに、
中学生の間でも、外見は非常に重要な要素かもしれません。
ただし、この外見ってヤツは
時代によって違ってくるので、
いまブオトコだと言われても、落ち込むことはありません。
清潔にしていれば印象も違う、ということもある。

2)優しい、頼れる
旧約聖書のダビデは、戦いに勝つような凄い戦闘能力があって
頼れる人間でしたが、竪琴を弾くような優しい面もありました。
たぶん、人が困っているときに「手伝おうか?」と言ったり、
パッとなにか手を差しのばしたり出来たのでは。
見倣いましょう。

3)頭がいい
戦争に勝つ人間ですから、当然頭がいいでしょう。
学校生活があったなら、ダビデは成績優秀だったかも。
これは努力でどうにかなる面が大きい。

4)おもしろい
ダビデがおもしろい人間だったかどうかは不明ですが
笑いを取れる人間が、現代では評価をされます。
ひそかにネタを探して、意外なものと組み合わせる。
視点をナナメにしてみる。
話題が豊富。などなど……

5)運動が出来る
石ころひとつで巨人ゴリアテを倒したダビデですから、
もちろん運動も出来ます。
あなたもスポーツが出来なくとも、機敏な動きをするとか、
足が速いとか、見て分かる分野でがんばってみる。

6)明るい
ミケランジェロの彫像を見る限りでは、ダビデはシリアスモードです。
しかし、王のお気に入りになったところを考えると、
明るい性格だったかもしれません。
笑顔は美徳の1つです。あなたもやってみましょう。

そのどれにも当てはまらない場合は、
なにか得意分野を考えてみるといいかも。
突き抜けた人には魅力があります。

本気になれません

聖書の登場人物は、いつも全力で本気です。
パウロなどは、マジに復活を信じており、
こんなことを聖書に書いています。
コリント人への第一の手紙 15:55-57
「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」

中途半端な人には書けない言葉ですね。
なまぬるい人は、つまらない人生を送ると
わたしは思います。
一生を掛けて信じ、それに命を燃やすほどの
なにかを探して、見つけ出す。
中学生なら、そんななにかを見つける
いい時期なのです。

あの時ああすればよかった、と
おとなになって後悔する人は多いと聞いています。
わたしも、そのひとりです。

中学生の時に、「いつか本気を出すもん」と
グダグダしていたら、
ずるずるどうでもいい大人になります。
そして、一生後悔し続ける。

懸命に生きている人は、
いつだって輝いています。
懸命に生きている人は、
他人を動かす力を持っています。

どうでもいいや、と半端な気持ちで生きていると、
どうでもいい人間として扱われます。
会社でも、仕事上の重荷になっていき、
クビになるかもしれない。
実際、自分のことがちゃんと出来ずに
人に迷惑を掛けてる社員もいますからねえ。

責任というものが、あるのです。
いつまでも子どもで居ると、
世間の荒波に飲み込まれてしまい、
人生を棒に振ることでしょう。

どんなに笑われてもいい。
本気だから輝ける。
本気だから、幸せになれる。
中学時代は、本気モードを学ぶ時期でもあります。

だから、おとなになって後悔しないように、
いまのうちに本気モードを全力で出していきましょう。
恥ずかしい気持ちもあるでしょうし
いきなり行動に出したら、世間体があると
思っちゃう人もいるかもしれませんが
世間があなたの人生を生きているわけじゃない。

あなたは、自分の人生を切り拓かねばならないのです。
熱中するものを見つけて
本気で「生きて」いってくださいね。

 

 

おしゃれな友だちに憧れます。

おしゃれに目覚める時期ですね。
イエス・キリストなどは、
「明日なにを着ようか、なにを食べようか
思いわずらうんじゃない」
なんて言ってますが、
そうは言っても、人からどう見られるかを気にするのが
この年ごろのふつーの感覚。

イエスがなぜ、そんなセリフを言ったのか。
考えてみたんですが、
たぶん、その当時の人たちの中には、
自分のキャラや見た目に似合わない服装をしている人が
いたのかもしれません。

イタい恰好をしていたら、
当然、笑われることになるわけで、
それがイヤだから思いわずらうことになる。
わざわざ笑われることはするなってことでしょう。

だったら、どうするか。
あるエッセイストなどは、友人にスタイリストがいて
似合う服を見つくろってくれると
書いてありました。

わたしの場合は、義母がスタイリストです。
「あなたの雰囲気だったら、これが似合うわ」
と言って、服を買ってくれたりします。

あなたも、友だちに相談してみてはどうでしょうか。
ファッションに関心があって
ステキな恰好をしている友だちに、
「それ凄くいいね、
ぼくも見倣いたい。ぼくに似合いそうな
ファッションを教えて!」
って言って、助言をもらう。
友だちだって、褒められたら悪い気はしないでしょう。

そんな友だちはいないよって人は、
ネットの動画検索をしてみるとか、
雑誌を買ってみるとかして
センスを磨いてみる。

わたしは、自分のお小遣いから服を買ったりしますが
中学生には、服は高かったりするので
親にお小遣いをねだるかもしれません。
しかし、
「おれ、服を買うから、カネくれ!」
なんて言ったら、カドが立ちます。
「ぼくも自分で服を買ってみたいから、
どうかおカネをください」

おカネを出すのは親なので、そのあたりは
ちゃんと工夫してお願いしましょう。

似合う服を着たら、きっとあなたもモテる……かな。

優柔不断な自分を変えたい。

自分が優柔不断なことがわかっていて
改めたいと思うだけでも、立派だと思います。
わたしの叔父なんか、
自分が優柔不断であることが
自分の長所だと言ってました。
そのおかげでわたしも、ずいぶん迷惑を被ったものです。

だから彼が小さい頃に、優柔不断な自分を改める訓練を
してくれたら良かったのになと
思うんですよねー。

キリスト教での、優柔不断な人の筆頭が
モーセでしょうか。
神さまから、イスラエル人を救えと命令されてるのに、
自分は相応しくないとさんざん、断ってます。
神さまに押し切られて、仕方なくリーダーになりますが……。

その際、モーセは自分の選択肢を神さまから与えられていました。
そこで考えたんですが、
あなたも、自分の選択肢を自分で考えてみてはどうでしょうか。
優柔不断は、努力でなおるんです。

自分の決断をする際に、制限時間を設けたり。
最初は1分だったのを、徐々に減らして、
5秒で決断できる人間をめざす。

自分に関わることを決めてみたり。
受験や志望校について、ムリヤリにでも決断してみる。
その際に肝心なのは、決めたらもう、変更しないこと!
失敗を恐れることはありません。人間は完全じゃないんだから。
しかし、もちろんいつもいつも失敗していたら、
自信がなくなるでしょうから、
物事に学ぶ姿勢を常に持ちましょう。

つまり、常にデータを集めるんですね。
学校での勉強はもちろん、
読書、ネット、テレビ、友だちとの会話など、
学ぶことはいろいろいっぱいあります。

学んだことを活かしていくことは大事ですが、
それを踏まえた上で、
直感を信じると言うこともやってみましょう。
経験が積み重なれば、
そこから「ビビッ」と来るものがある。

そういったことを繰り返して、
経験値を積み重ねていくんですね。
あなたはまだ若いんだから、
優柔不断はこれでだいぶ、克服できるはずです。

ネガティブ思考を変えたい。

ある程度までのネガティブ思考は、わたしは必要だと思います。
最悪の事態を予想して、それに備えていく。
いいことばかり考えていて、もし、突然
悪いことが起こったら対処できないのは問題。

しかし、どんなに悪いことを予測しても
わざわいは不意打ちなんです。
東日本大震災を思い出してください。
安全だと言われていた原子炉が
見事にヤラレてしまってます。

いつもいつも、最悪のことばかり考えて
ウジウジしているのは、
精神衛生上よくありません。
友だちだって、
「あいつ、ネクラだから嫌い」
って、仲間はずれにしかねない。
だって、いっしょにいたって
楽しくないんだもん。
当然ですよね。

イエスは言いました。
「明日のことを思いわずらうことなかれ
1日の苦労は1日にて足れり」

ネガティブ思考でいると、
せっかくいいことが目の前で起こってるのに
受け取れないこともあります。
1日の苦労は1日で足りているんです。
なにも、余計な心配をして
苦労を増やすことはないでしょう。

わざわいは不意打ちなのです。
どんなに覚悟していても、人間は失敗する生き物です。
わざわいや、失敗をおそれずに
真正面から受け取るためにも、
ものごとをポジティブに捉える訓練は必要。

しかし、不安やネガティブな思いというのは、
なかなか去らないものです。
そういうマイナス思考というのは、
外からの刺激で来るのではなく、
内面的な刺激から来ることが多い。

つまり、どんなに引きこもっても、
努力しない限り、
ネガティブ思考からは逃れられない。
だから、こういう場合は、
ヨガ的療法を試してみるのもアリ。

つまり、瞑想をするんです。
具体的には、腰をおろしてあぐらや正座で座り、
目を閉じて、息を鼻から吸って、
いーち
と吸い込み終わったら、フーッと吹く。
にー
と吸い込み終わったら、フーっと吹く。
それを10回くりかえす。

それを繰り返していく内に、気持ちが落ち着いてきますよ。

ダルくて仕方ありません(2)

20日に、ダルくて仕方ありませんという
お悩み相談のお答えをしました。
その際、わたしは、
精神科に相談することと、
口癖なら治した方がいい、ということを
助言しました。
聖書には、口から入るものではなく
口から出るものが人を汚すと書いてあります。
ただ、いちがいにそればかりとは
言えない場合もあります。

疲れやダルさを感じることは誰にでもあることですが、その原因と対処法は人によって異なります。以下に一般的な原因と対処法をいくつかご紹介します。

睡眠不足:適切な睡眠時間が確保されていない場合、ダルさや疲れを感じることがあります。睡眠時間を確保するために、毎晩十分な時間を確保し、睡眠環境を整えるようにしましょう。

運動不足:運動不足は、体の疲れやダルさの原因となることがあります。定期的な運動や運動習慣を身につけることで、体力をつけることができます。

栄養不足:不健康な食生活は、体に必要な栄養素を不足させ、疲れやダルさを引き起こす原因となることがあります。バランスの良い食事を心がけ、特に栄養豊富な野菜や果物を摂るようにしましょう。

ペットボトル症候群
ジュース類の飲み過ぎでの急性糖尿病で倦怠感が出ます。
(読者さんからのコメで教えていただきました。
ありがとうございます)。

ストレス:ストレスは、体の疲れやダルさの原因となることがあります。ストレスを感じた場合は、自分なりのストレス解消方法を見つけ、リラックスする時間を作るようにしましょう。

以上のような原因や対処法が考えられますが、それでもダルさや疲れが続く場合は、病気や疾患の可能性もありますので、専門の医師に相談することをおすすめします。
特に中学生の場合は、ペットボトル症候群を
視野に入れていただくといいかもしれません。

ダルくて仕方ありません

ダルいというのは、中学生には良くあることです。
要するに、疲れたってコトですよね。
毎日なんとなく過しているのに、
疲れが取れない。
精神的に、参っているのかも知れません。

うちの主人も、すぐ疲れたと言って
休日はヘタばってます。
しかし、疲れた、疲れたと言いつつも
家族サービスは忘れていません。
そういうところ、偉いと思う。

キリスト教(カトリック)には、
懺悔室というものがあって、
人の悩みや苦しみを神父に告白する習慣があります。
それがカウンセリングに通じていくわけですが、

あんまりダルかったら、内科精神科へおじゃまして
お薬をもらうという手もあります。
いいお医者さんにでくわしたなら、
いいお薬を紹介してくれるので、
それを飲んだらラクになることもある。

ただ、薬を飲むまでもなく、
口でダルいダルいと言っているだけ、
口癖に過ぎないって言う場合は、
改めた方がいいと思います。

だって、だれだって、疲れた、ダルい、面倒くさいって人と
仲良くなりたくないもん。
自分が楽しいことをしようって誘ってるのに
相手が「疲れたからやりたくない」
これじゃあ、つまんないですよね。

「あいつ、いつもあんな調子だから
仲間に誘うの、やめようぜ」
ってことになる。
別に仲間はずれにするつもりはないんです。
楽しみを奪われたくないだけ。

口癖をなおすだけで、イイコトが起こるものです。
イエスは、口から入るものではなく、
口から出るものが人を汚すと言いました。
自分の使う言葉に気をつければ、
人との関係もうまくいくはず。

ダルいダルいと言って、ダルさがが消えるわけがない。
マイナスな行動をするより、
それを吹き飛ばすプラスの行動をしてみましょう。

希望は失望に終わらないという聖書の言葉もあります。
目の前のことに夢中になる。
部活や授業に熱中すると、
少しは変わってくるかも知れません。

自分のいいところが見つかりません

自分のいいところが見つからないといっても、
ほかの人のいいところが見つけられる面があれば、
それは立派な美点です。

大人になるためには、自分がどう思うかより
他人にどう見られるかを判断することも大事。

イエスは言います。
「自分を低くするものは、かえって高められる」
欠点しかない、と自己嫌悪にかられるひとも
神さまからは評価されているんです。

それを思えば、自分の欠点しか見えないってことはない。
欠点を直視する勇気があるんですから、
それだけでもたいしたものです。

神さまから愛されている自分を
好きになってみましょう。
最初は難しいかもしれません。
仲のいい友だちに、
「ねえ、わたしの長所ってなんだろね?」
って聞いてみるのもアリ。

友だちがいなかったり、相談する人がいなくてもだいじょうぶ。
少なくとも、あなたの親は、あなたの美点を見つけてくれるはずです。
自分がダメダメな人間だと思っていたのに、
意外な長所を言ってくれて、
うれしくなることもあります。

長所がわかってくると、客観的に
自分を見られるようにもなってきます。
もちろん、すぐには難しい。
人間は本来、自己中心的な存在で、
思い込みがはげしいという欠点を持っています。

自分を客観的に見ることは難しいけれど
長所が見えてきたら、心にゆとりが出て来ます。
思い込みが激しくて、自分の感情などに
足を取られることがあっても、
長所を認識すれば、多少は違ってくる。

良く言われるように、長所は短所の裏返しです。
自分の悪いところばかり目が行くとしても
逆に考えれば、それは長所になる。

自分は悪いところしかない、なんていじけている人には
成長はありません。
悪いところは、人間なんですから、あって当然なんです。
悪いところと向き合って、直せるものはなおしておく。
あなたは生きているだけでなにかを生み出しているのです。
それがなにかは、自分で考えてみてください。

コンプレックスが気になります

人からどう思われるか、
気になるからコンプレックスというものがあります。
人からの視線が気になる年頃なんだし、
気にならなかったらそれはそれで問題です。

しかしイエスは言います。
「明日なにを着よう、なにを食べようと思い悩むな。
明日のことを思い煩うことなかれ。
1日の苦労は1日で足れり」

要するに、コンプレックスはあって当然なのだということ。
自分の欠点で、直せるものなら、直すよう努力すればいいです。
足が遅いんだったら、日々走ってみる。
友だちが少ないんだったら、その少ない友だちと深く付き合ってみる。

今すぐにはどうしても直せない欠点もあります。
顔の造形とか、身長とか。
そういうのに直面したら、
1日の苦労は1日にて足れりで、
そういうもんだと今は受け容れるしかない。

そういう、直せる欠点、直せない欠点を、
メモに起こして直視してみる。
そして、直せるところから直していく。

身ぎれいにするのは当然ですが
不必要に飾りたてる必要は無い。
明日は明日の風が吹く。
おとなになれば、今日のコトなんて
ちっちゃな悩みだとわかってきます
(なかなか、信じられないでしょうけれど……)

コンプレックスがあるからダメってことはない。
自分の欠点をありのままに直視して
それを愛してみましょう。
自分をきらってしまったら
生きることがつらくなります。

神さまは、あなたを愛している。
ダメでもコンプレックスがあっても
ありのままのあなたが大好きなんです。

だからあなたも、自分を信じてみましょう。
コンプレックスはあなたの特徴の一つ。
いやな自分でも、愛してくれる神がいるんです。
人にどう思われるかではなく
自分がどう思うかが問題。
自分がいま、こうだからこうなりたい、
という目標を持って、前向きに生きていってください。

今の自分を愛さなければ、成長はないのです。

 

 

自分がわかりません.何がしたいのか。何になりたいのか。

自分は何者なのか、という疑問は、
わたしも中学生の頃に抱いたものでした。
今も、わからないままです。

いちばん後悔しているのは、
中学生の頃に「これをやってると楽しいけど
なぜだろう?」
って考えなかったことでしょうか。
今さえ楽しければそれでいいと思っていました。

いじめられていたので
教会で讃美歌を歌ったり
聖書を読んだりしているときだけは
とても楽しかったんです。

だから、将来何になりたいのかとか
人生の意味とか、深いことは考えませんでした。
あの時、もうちょっと、
自分が何に幸せを感じ、
イヤに感じることが何なのか、
分析していれば、
いまごろ、もっと深い人間になれたはずなんです。

おとなになって、仕事に負けて
専業主婦からやり直すことになりました。

わたしが30代、40代のとき、
「何でこれをやってると楽しいんだろう?」
「どうしたら、さらに楽しいと感じるんだろう?」
ってその頃から思っていたら、
文章ももっと磨かれたものになっていたはずです。

自分の感覚と、しっかり向き合うこと。
自分が今、何を感じて、どうしてそうするのか、
普段から考えていくこと。

それを若い頃にやっていたのがパウロです。
イエス亡き後、布教活動を開始した弟子たちを
徹底的に迫害したのですが

あるとき、ダマスカスから帰るときに
光が射し込んできて、
イエスがパウロに話しかけました。
「パウロよ、なぜ私を迫害する」

それ以来、パウロは目が見えなくなりましたが
弟子のひとり、ペテロに頼み込んで癒してもらいました。
その際、「目から鱗が落ち」て、目が見えるようになったのです。

パウロは、いくら迫害しても屈しない弟子たちを
ずっと疑問に思っていたのでしょう。
それ以来、パウロはその後のキリスト教の根幹をつくる考えを
宣教したのです。

若い内から疑問を大事にして、スルーしないことは大切ですね。
深く考えることで、人生に意味を見出し、
人を感化できるかもしれません。