モテません。

モテない人、聖書にもいます。
イスカリオテのユダです。イエス・キリストを裏切って
銀貨30枚で敵に売り渡した人ですね。
この人は、弟子たちの間では教養人で、
会計係もしているほど頭が良く、
常識人でした。

ユダがイエスを裏切った理由はハッキリしません。
ただ、晩年のイエスに、売春婦が
香油をそそいだのをとがめた話は
聖書に載っています。
その香油を売れば、貧しい人が助かるとユダは言うのですが、
イエスは、やりたいようにやらせなさいと
ユダを諭します。

ここから見るに、ユダはマジメな人だったようです。
欠点・弱点はあまりなかったかも。
モテるタイプじゃないと言えるのでは。

あなたぐらいの年では、モテる人は、だいたい決まってます。
イケメンで、スポーツが出来たり話が面白かったりするんです。
その事実に絶望し、
モテないから、いや、モテようとせずに
バーチャルな世界に浸ってしまう人もいるでしょう。

しかし、欠点・弱点があるからこそ、
逆に人間味があるのです。
人にモテることは、大切です。
イスカリオテのユダのように
優等生でお高くとまっていて
カノジョひとり作れないなんて
寂しい人生ですよね。

ユダを反面教師にしましょう。
一生懸命に輝ける、
そんなおとなになりましょう。
外見がイマイチでも
話が脱線気味でも
分かってくれる人はいます。

これからおとなになっていくとき、
薄っぺらい常識などに囚われない
ほんとうの自分が、
大切な中身が、
だいじだと分かってくる人が
大勢出てくるんです。

そうなったとき、一生懸命であることで
自分らしく生きていける。
なにかに熱中している姿を見て、
好きになってくれる人もいるでしょう。

もちろん、外見もだいじです。
髪の毛ボサボサのヒゲぼうぼうとか
制服もしわだらけなんてもってのほか。
モテたかったら、清潔感を
大事にしてください。

懸命な姿勢と清潔感、
神の守りがあれば
百人力です。

口が滑って失敗しました。

口が滑って失敗した人、聖書の中にもいます。
それは、サムソンという人です。
怪力の持ち主で、当時イスラエル人の英雄でした。
髪を切らない限り、怪力が持てるので、
生まれてから一度も髪を切ったことがありませんでした。

ところが、敵の手先である妖艶な美女デリラに
しつこく怪力の秘密をさぐられます。
2度ほど、ごまかしたサムソンでしたが、
3度目にとうとう、口が滑って秘密を喋り、
寝ている間に髪を切られて投獄されてしまいます。

このように、だれだって口が滑って失敗することはあります。
投獄されるほどでなくとも、
友だちとの仲がこじれたり、
仲間からハブられたりすることもあるでしょう。
そういうひとはたいてい、
「言うつもりじゃなかったのに……」
と後悔するのです。

サムソンは、考えなしに秘密を喋っちゃったので、
投獄され、けっきょく死ぬのですが、
そうならないためには、
ものを言う前に、一瞬、言葉を考えてみるのもテです。

今考えていることをパッと言ったら、
周りがどう思うのかを考えるんですね。

難しそうですが、別に10秒とか20秒とか
長い間考える必要はありません。
ほんの1,2秒でOK。
あんまり間があくと、変ですしね。

「これって、ほんとに言いたいことなのかな?」
一瞬だけ、考える。
そしたら、思考が明晰になり、
失敗も少なくなります。

口が滑って失敗しないように
工夫するには、そういった訓練も必要です。
お笑い芸人やタレントは、
そういう訓練を経てプロになっているんです。
いや、プロになれと言っているのではなく、
自分でも一瞬考えることで、
面白いことや論理的なことが言えるように
なっていくものです。

面白いことってのは、具体的な失敗談とか
たとえ話とか、ギャグとかですが、
普段の会話から、直観的に言うことと
考えて話をすることを分けることが
出来るようになってきます。

間違ってしまったら
全力で謝るのもお忘れなく。

 

テレビや動画などを見ないので、友だちと話が合わず、孤立します。

わたしも子どもの頃、アニメを見せてもらえなかったこともあり
友だちと話が合いませんでした。
いじめられていたのはそれが原因の一つかもしれません。
親を恨んでも仕方ないんですが、
こればっかりは、家の方針です。

なので今でも、「懐かしのアニメ」なんてのが
テレビで放送されると、胸が痛みます。
そして思うのです。
あの時、どうして両親は、アニメを禁じたんだろう。

キリスト教において禁じることは、
偶像崇拝でしょうか。
人が作った偶像に神がやどると考えて、
神さまそのものではなく、偶像を拝むことを
キリスト教は嫌います。

たぶん、両親は、アニメを通して
それに熱中し、現実を忘れてしまうことを
懸念したのかも知れません。
キリスト教で偶像がただの作り物であるように、
ただの動く絵でしかないアニメに
生きがいまで感じたら、たいへんですからね。

しかし思うのです。
両親の言うのももっともだけど
学校でハブられるのなら
自分にとって、アニメがどんなに大切か、
両親を説得すれば良かったと。

これはおとなになってからも通じる
プレゼンの練習です。
アニメの絵の魅力、声優の熱演、ストーリーの面白さ。
具体的に説明して、
両親に納得してもらったら、
ハブられることもなかったかも。

キリスト教がどうして偶像崇拝を禁じているかというと、
そこに神さまがいるわけではないからです。
そんな人工物におさまるほど
神さまは小さくない。

しかし日本のことわざは言います。
「仏作って魂入れず」。
魂の入った仏も、実際にあるという考え方です。
この場合の仏は、製作者の念が
こもっているかどうか、が問題なのではと
思うのですが、どうなんでしょう。

万物は、神によって作られました。
製作者が念を込めたところで、
命を吹き込むことは出来ない、というのが
キリスト教的立場です。

命を吹き込むことは出来なくとも
魅力的なものはあります。
価値観が違っていても
両親にそれをわかってもらうためには、
プレゼンはだいじです。

まわりの陰口が気になります。

まわりの陰口が気になるのは、自我が芽生えてきた証拠です。
「あいつってこうだよね」
って評価が定説になると、
それがイメージになってつきまとうコトもある。

旧約聖書には、サウルという人物が出て来ます。
この人は、周りから推されて王さまになったんですが
戦争のストレスからなのか、
あるいは国事の重圧からなのか、
だんだん、精神的におかしくなってきました。

それを慰めるために、ダビデという見目麗しい羊飼いが
竪琴をかなでにやってきます。
サウルは、ともかく、いちどは大人しくなるのですが、

ある日、ペルシャからやってきた巨人ゴリアテを
ダビデが倒したとたん、
民衆の支持がサウルからダビデへ……。
サウルは、自分が悪口を言われていると思い込み、
ダビデを殺そうとするのでした。

悪口を言われるのは傷つくことです。
自分はこうだ、と思っていても
中学という社会の中で、違う評価になって、
事実上、クラスから孤立することもあるでしょう。

あきらかに悪口だと思ったら、
「それは違う!」
というのも大切です。(ビシッと言うこと!)
ダビデみたいに自分の命を狙われているわけじゃないんですから、
誤解は早めに、積極的に解いたほうがいい。

ひょっとしたら、まわりはそれほど深く考えてないかも知れない。
面白がって話題にしている、それだけかもしれない。
結局の所、悪口なんて
気になるひとだから言っているようなところがありますね。

いまは自分のやりたいようにやる時期ですが、
まわりの意見も耳を傾け、
仲良くやっていくのも大切です。

意外と他人は、自分のことを、
自分で思っているほど注目していないものです。
ああだこうだ言ってるのも、
表面的な部分に言ってるに
過ぎないかもしれません。

ダビデは、心友の助けを借りて、
サウルの魔の手を逃れました。
あんまり悪口が気になるようなら、
クラスメイトからそれとなく、
注意してくれるようにお願いするのも
ひとつの手かもしれません。

ほんとうに仲のいい友だちができません

仲良しはいっぱいいるけど、ホンネで話せる友だちがいないって
さびしいですね。
わたしは、中学生の頃はいじめられていたので、
ホンネで話せる友だちどころか
ふつーの友だちもいませんでしたが、
高校の時に、生涯の友だちを見つけました。

それは別に、イエス・キリストではありません。
イエスはわたしにとっては別格です。
友だちの中の友だちです。
悩みごとや苦しい時に、お祈りして、
慰められます。

そうではなく、現世での友だちとしては、
いっしょの合唱部に入っていたNちゃんがあげられます。
高校になったとき、
「わたしは、高校デビューするんだ!」
と胸弾ませて、部活を始めました。
しかし、長年いじめられていた経験から、
話しかけるのはためらわれました。

そんな折、Nちゃんが、
「あなたはどのパートになるの?」
と話しかけてくれたのです。
わたしは天にも昇る気持ちになりました。
嫌われていたわたしは、
とうとう、部活でも欠かせない人間になったのです。

その後も、Nちゃんとの交流は続いています。
もう、40年以上になるでしょう。
わたしはこの件で、自信がつきました。
だから、コンピュータの専門学校で
遠足があったときも、
となりのクラスの男子に、
(男子なんて誰も信じられない)
と思いつつ、
話しかけたのです。

すると、その男の子が、
「おれのカノジョになれへんか?」
と誘ってくれたのでした。
わたしがアクションしなかったら、
その男の子はカレシにならなかったし、
その後、結婚もしなかったでしょう。

いまでは
夫との交流は深いものになっています。
仏教徒の彼とは、
ときに対立し、
ときに勉強し合い、
ともに成長していった実績があります。

だからひとついえるのは、
なにごとも、きっかけは自分が作るということ。
ホンネで話すには勇気が要りますが
心友を作りたいなら、
自分からアクションを起こさねばなりません。
話しあいは相互理解の基本なのです。

友だちとケンカして学校へ行きたくありません

友だちとケンカって、よくあることですよね。
聖書には、ものすごい兄弟ゲンカが平気で載っています。
あなたのケンカなんて、チョロイもんだと思えるほどの。

それは、ヤコブとエサウというふたごの兄弟の話です。
兄のエサウは頭は悪いが、毛むくじゃらで野性的。
父親に溺愛されています。
次男のヤコブは、頭がいいけどヤワな身体で、
父親からは疎んじられていました。

ある日、父は年老いたため、
エサウにすべての財産を生前譲渡
することにしました。
そうと知ったヤコブは、
羊の毛皮を着て毛むくじゃらのエサウになりすまし
財産をすべて目の悪い父から奪い取ってしまったのでした。

エサウの激怒を恐れて逃亡するヤコブ。
これだけ見ても、兄弟の間に泥沼の
ケンカがあることは、よくおわかりでしょう。

決定的な亀裂になるようなケンカでないのなら、
自分から謝ってしまうのもテです。
たとえば、友だちがナニゲに、
自分のやっていることをケナしたとしても、
いつまでも怒っているのは
あなたも自己中の仲間入りってことですね。

ヤコブは怒れるエサウから逃げて、
伯父のところへ身を寄せます。
そして財産をふやし、
エサウに使いをやって
自分の財産をプレゼント。
エサウに謝罪しまくりました。

ふつうなら、あくどい手段で財産を奪われたんだから
ゆるすなんてとんでもないことです。
しかしエサウは、性格がサッパリしていたので、
ヤコブの謝罪を受け容れて
仲良しになりました。

友だちとケンカして謝罪しても
受け容れてくれるかどうか、わからないと
おじけづくこともあるでしょう。
しかし、いつまでも引きずっていたら
楽しい生活も、あじけなくなる。

勇気を持ちましょう。
ヤコブのようなひどいことを
友だちからされたわけじゃないのですし
友だちにしたわけでもないのですから。

つまらない理由でケンカしたのなら謝って、
次に活かしましょう。
これも練習だと思うと、気がラクかもしれません。
リラックス!

自己中な人と、どうにも仲良く出来ません。

人は誰しも、自己中心的な面があるものです。
前にちらっと、ヨセフの話をしましたね。
平凡な羊飼いの末息子だった彼は、
父親にヒイキされて兄に妬まれていたんですが
ヨセフは自己中心的だったので、
それに気づかず、兄に憎まれるようなことばかりしていました。
そのせいで、兄に命を狙われたりします。

あなたが友だちを自己中心的だと思うようになったのは、
友だちよりあなたが少しばかり、大人だからかもしれません。
ヨセフは自分が兄たちに妬まれていることを知らなかったので
墓穴を掘ってしまいますが、
あなたはそうじゃない。
その意味では、ヨセフよりも賢いと言えましょう。

ヨセフは、自己中心的な自分から脱却して
一国の将来を任されるほどになりました。
それは、自分でそうだと気づいたからです。

「それって、自己中だよ」って
忠告するのは、友人としてのつとめです。
そういうふうに忠告することで、
自分自身もまた、反省材料になるかもしれません。

だいじなのは、自分ひとりだけでは
幸せになれないってこと。
忠告しないという選択肢を選ぶ考えは
自分さえ良ければ、という
それこそ自己中な考え方なのです。

ヨセフは、忠告する人がいなかったため
奴隷になってしまいました。
その後、奇蹟の逆転劇、
思いも寄らない下克上が
ヨセフを待っています。

自己中心的な自分を改め、
すなおに、客観的に自分を観察する。
そうすることで、成長することも出来ます。
思いがけず、素敵なことも起こるでしょう。

いつもいつも他人を優先しても
幸せにはなれないのですから、
なにごともバランスが肝要ですね。
他人を自己中な人だと認識する以上、
自分は他人の幸せが
いちばんだと考えているのかもしれませんが
自分がいるから、他人も存在できる。

自己中な人に助言しつつ、
自分も他人に干渉しすぎないよう
こころがけてみるのも
ひとつのやり方かもしれません。

悩みごと:嫌いな人が多くて困っています。

嫌いな人というのは、具体的にどんな人でしょう。
自分が苦手な人かな。
自分に合わない人?
つまり自分で勝手に嫌いな人に分類しているってことね。

聖書には、嫌いな人に苦労したヨセフって人の話があります。
このヨセフは、ごくふつうの羊飼いの末息子だったんですが、
父親にヒイキされて兄たちに妬まれ、
奴隷に売り飛ばされてしまいます。

その奴隷の生活の中で、
上司の奥さんから言い寄られて
困ってしまいました。

困ったというより、上司の奥さんは好きじゃなかった。
ハッキリ言って、嫌いでした。
なので、避けていたんです。

嫌いだと言っているうちに、
上司の奥さんは、ヨセフが襲って来て
乱暴されたと夫に主張して

夫が怒って、ヨセフを投獄してしまうのです。

そんなわけで、嫌いだと言っていたヨセフは
人生のドン底にたたき落とされたのです。
その後、いろいろあってヨセフは
エジプトの宰相にまで上り詰めますが
それはそれとして。

嫌い嫌いと言っていたら
人生の選択肢が狭まります。
へたすると、その後の人生を
牢獄に閉ざされて生きるハメになります。
牢獄と言っても具体的な意味ではなく、
くらい生活、狭い価値観の中で
単調な生活を送ることになる。

どんな人とも仲良しに、なんてなかなかなれないものです。
嫌な相手は、必ずどこかに居る。
だけど、嫌い嫌いと避けてばかりでは、
人生はさむざむとしたものになる。

食わず嫌いより飛び込んでいきましょう。
人生をよりよく生きるために。
大人になっていくことは
つらいこともあるけれど
いざ、やってみると
やりがいがあるものです。

嫌なことがあるからと
にげていたら、大事なことを見逃します。
なんかイヤそうとか思い込んでいたら
問題は解決しないのです。

嫌いと言う前に、
「へえ、こんな人もいるんだな」
と興味を持って観察してみましょう。
自分から牢獄に入るより
ずっといい人生になること
間違いなしです。

 

悩みごと:友だちがダメな人間に見えます。

逆に聞くけど、世の中にかんぺきな人間がいる、と思う?
自分も含めて。
相手のことをあまりにも尊重すれば、八方美人だろうし
ぎゃくに相手を軽視すれば、お高くとまってることになる。
世の中に完全な人間などいません。
神の前では、みな欠陥だらけなのです。
それは、先祖の時代からそうでした。

人類の先祖であるアダムとイブは、
神さまから食べたら死ぬと禁じられた木の実を
食べて、楽園から追放されました。
この失敗がたたって、
人間は死ぬ運命になってしまったのです。

遠い先祖からして、こんな調子ですから、
子孫のわたしたちなんか、ミスのしっぱなし。
周りを見れば、みんな中学生だから、
未完成な部分も多いでしょう。

だから、ダメだと言う前に、
自分を知ることからはじめましょう。
ギリシャのアポロ神殿では
『汝自身を知れ』という落書きが
書いてあったそうです。
これは哲学の初歩でもあります。

わたしも、ある人のやっていることが
いちいち、カンにさわることがあります。
公民館で合唱サークルに入っているんですが、
その人はよく休む上に
練習をじゃましてばかりいるんです。

だけど、自分がイライラしていることを
客観的に自覚したとき、
結局こんな気持ちになるのは、
相手に関心があるからだと気づきました。

もうひとつ、高校の頃、自分が
知らずに人を傷つけたり
配慮のない発言をして
友だちからアイソをつかされたこともあります。

最後にわたしが、「あいつ、ムカつくね」って言ったとき、
友人は、「自分はどうなのよ? なにもかも、出来てるわけ?
ひとの悪いところばかりに目が行くのはいけないよ」
と言って、去って行きました。

そのときは、なんだあいつ、偉そうにと
反発ばかりしていましたが、
ごく最近、似たようなことを
夫に言われました。
「そんなことばかり言ってたら
百年の恋も冷めるぜ」
目が覚めました。

自分を見つめてから相手を見ましょう。
そうすれば、態度も変わってくるはずです。

悩みごと:一生懸命にやっていることを、笑われました

一生懸命にやっていることを笑う人は、
子どもの世界だけでなく、大人の世界にも存在します。
わたしも、自分のやっていることを
「たいしたことないね」
って言われたり、
「小学生じゃあるまいし」
と笑われたことがあります。

イエス・キリストをあざける人もいました。
なにしろ着のみ着のままで布教活動はするし、
当時の有力者と対立したり、
(そのせいで結局十字架にかかるんですが)
常識からほど遠いことをやっていたからです。

その中のひとりに、イエスの母マリアがいました。
あまりにも自分の息子が常識外れなことをやっているので
あざけるより、むしろ、心配になって、
地元ナザレから、布教をしているイエスの所へやってきます。

「ほら、あなたのお母さんと兄弟がやってきましたよ」
教えてくれる人がいました。
イエスはそれを見て言いました。
「わたしの教えを守る人が、自分の母であり、兄弟です」

イエスは自分があざけられても、うとんじられても
布教活動をやめませんでした。
だからこそ、歴史に名を残す人になったのです。

一生懸命が笑われたからって、気にすることはありません。
笑っている人間のほうが、気の毒なのです。
自分の生きる意味や、生きていることの価値もわからず、
ただ、食って寝てネット生活。
そんなの人間の生活と言えるでしょうか?

考えるに、あなたを笑っている人は、かつて自分も笑われて、
傷ついたあまり、勇気を持てなくなったのかも知れません。
自分自身を信じられなくなったため、
他人を攻撃するようになったのでしょうか。

自分が観客になれば、主役を笑うのは簡単です。
自分の人生を真剣に生きたことがない人間が
なにを言おうと関係ありません。

イエスがついています。
一生懸命にやっていることを、彼はどこかで見ていて、
自分の母、兄弟だと認めてくれる。
神の子に認めてもらえるのです。
ザコなど放っておきなさい。