人権について思うこと

日本における人権ということばの定着経緯について、
今回、考えてみます。

仮説を立ててみました。
日本人にとって「人権」という概念は、
比較的あたらしい考え方なのではと。
なぜならおなじみの古典的仏教思想に
「人としての権利」という概念があるということは
聞いたこともないからです。

古典的仏教では、「生きる権利」より
「生かされる感謝」を重視する、と言います。
食べるためにいのちを奪わないと生きていけない自分。
草や木や生き物たちに感謝する。
生かされている、ありがとうの心、それが仏教の心。
そこで考えたことは、日本人は伝統的に、西洋的な
「人間とはなにか、人権とは」
を哲学する必要がなかったのではないか。
そのため、女性に売春を強要したり、売買したり、
子どもに過酷な労働を強いたりしてきたのでは。
食わせてやるんだ、感謝しろ、の心ですね。
感謝する心それじたいは美しいものですから、
なおさら悪質だと言っておきましょう。

以前カクヨムのコメントで、
キリスト教徒はクリスチャン以外は人間じゃないと思ってるのか
という質問がありましたが
人としての権利、つまり人権という概念は、
多分に西洋の影響があるのでは。
日本にその概念が入ってきたのは
戦後GHQが憲法に介入して以来(1945年以降)のことだと
愚考します。

それ以前は、特に女や子どもに権利なんてなかった。
女なんか、かみさん、とか言ってるけど、三行半で離婚も出来たんですから。
(女性からは離婚は出来なかった)。
1800年代に入ってキリスト教徒が、異教徒や肌の色が違っていても
人間だと(色々あって)認めていったのとは、違っていますね。

まあ、シロウトの考え方だから、いろんなツッコミはあるかもしれないし
宗教的な話って、炎上する危険もあるんだが。
(9日までお休みします)

むなしさと挑戦

一生懸命、エッセイを書いても
読んでくれる人が少ないとめげるものです。
わたしは夫に言いました。
「むなしくなってきた」

ずーっと下積みがつづいていて、
小説ではまったく評価されず、
エッセイ日記も、このままじゃダメなことは
わかっているのに、
才能がない&
プロデュース力がないために
読者も増えずにいます。

役に立たないエッセイ日記だし
目からウロコの価値観があるか、
というと、そうでもない。
クリスチャン、と主張しつつも
日和見だからさー。
強く出られるとぺちゃんこになって。

いろんなことを知りたいし
学んだことを表現したい。
読者がいなくても平気だった時代は過ぎて
やはり読者は欲しい、というのが
最近のわたしの気持ち。

まあ、カクヨムでは、読者が増えれば
広告料が増えて、収入になるという
システムになってるから、
それもあるんだけどさ(生臭い話だね)

でも、お金はともかくとして、
ひとりでも多くの人に、自分の生きてきた道を
残していきたいという気持ちがある。
自分一人で納得して、自分だけの世界に引きこもってるのは
臆病者のやることだと。

だけど、どれだけやっても、アクセスは伸びないし
読者も伸びない……なぜだろう……
やっぱり、人に役立つ情報が載ってないからかしら(滝汗)
そんな、役に立つ情報なんて
ふつーの主婦が持っているわけがないんだよねえ。

むなしさが増してきた。
気力が減って来た。
毎週のように書く日記が、負担になってきた。

と夫に言うと、
「あんたは、それしか得意なことはないんだろ。
夢をあきらめちゃ、いけん」
と励ましてくれました。

たとえアマチュアだったとしても、
インターネットで発表しているんだから
だれかの目には留まっているだろう。
クサることはない。

そうだ、広島のファッションビル
『サンモール』が、エッセイを募集してるから
挑戦してみたら?

夫は、あくまでもわたしの味方なのです。
ありがとうね。
そのエッセイ、挑戦してみるよ。

(明日は夫の手術日なのでお休みします)

 

夫、再発す

夫の心臓病が再発しました。
13日ごろから、心臓バクバク状態で、
耐えられなくなった夫は19日に市民病院へ。
わたしもついていきました。

まあ、再発するぞと警告されていたから、
いまさら驚かないし、悲しくもないけど
担当医がガッカリしていたらしく、
この病気のしつこさを感じます。

もともと、「発作性上室性頻拍」というのは、
発作性だから、一過性のもののはず。
ヘンな脈血管さえ排除すれば、
それで完治するはずだったんです。

だから、1回目の手術で、1度は夫も
良くなりました。
「からだが軽くなった」
夫は大喜びしていました。

ところが、それから1週間も経たないうちに、
またも頻拍が発生したのです。
はじめは、そんなにたいしたことないと、
新規購入したスマートウォッチで観察するつもりでいた夫。
しかし、頻拍は、とまらない。

ついに携帯用心電計まで購入しました。
それで不調な心拍数をはかり、
2022/04/19、担当医に提出しましたところ、
すぐに入院手続きとなりました。

入院は、4月26日朝10時。
手術は、4月27日夕16時から。
退院は、4月28日朝10時ごろ。

やっと元気になれた、と思ったのに。
またもや、手術なんてひどすぎる(汗)
「まあ、再発することは、覚悟してたけど」
わたしは言いました。
でも、こんなにしょっちゅうなんて……

こんどは泣かないもんね。
でも、手術が16時からだと、終わるのは20時頃になるだろう。
帰宅はタクシーになる可能性大。

手術中、なにをしてヒマをつぶそうかな。
前回は、エッセイ日記の
ネタ探しをしていました。

自分の思ったこと。
考えたこと。
推察したこと。
オリジナルの視点など、
いろいろ、工夫したいことが
山ほどあったりします。

わたしのエッセイ日記は、まだまだ視点がありふれていて、
読み物として耐えられるものじゃないけれど、
毎日書いていれば、人生が変わるかも知れない。

手前勝手な主婦の独り言でした。

人が読みたくなるエッセイ

売れるエッセイというのは、
人が読みたくなるエッセイのことだと言います。
なにか役に立つことが書いてあったり、
人に喜ばれたり、
笑えたり、泣けたり、独自の視点があったりしたら
売れるらしい。

ある人は、なにか発見があったら売れるという。
普通の人の発見なんてしれてると思うのだが、
ともかく、冒頭と結論の間に
なにか価値観が変わるものがないと、
読まれるに価するエッセイにはならんそうな。

とは言っても……
冒頭と結論の間に価値観の変わることが、毎日のごとく
あるわけがないのでしてね。
価値観がコロコロ変わるのがいいことだとも思えないし。
もちろん、発見があれば面白いと思うよ。
読んで面白いものには、
たいてい、なにか笑えたりドキッとしたりするような
何かが存在するからね。

たとえば『ちびまる子ちゃん』で、
過去に放送されたエピソードのなかに、
自分のふしぎな体験を漫画(アニメ)にした話があって、
それはうちの主人も、似たような体験をしていたので
昭和40年代にはよくあることだったのかな、と
思っていたら、

まる子ちゃんは、「この体験は、子どもの時にだけ神さまが与えてくれたもの」
と考えているのです(ナレーションでそう言っていた)。
その視点に、ドキッとさせられました。

それと同じ事を、『となりのトトロ』の歌詞でも歌われてます。
そして、『ナルニア国物語』でも、同じ事を言っている。
感動するコトって、みんな、似たようなものなのかな。

印象に残るひとこと、独自の視点。
意外と、身近にあるのですね。
秋元康などは、「歌詞は技術より、
『何を書くか』が大事」なんて
言っているんですよね。

何を書くか、と言われても……
わたしは天才じゃないし、ふつうのことしか書けないよ……
宗教的な話に凝り固まれば別だけど(ムリ)
独自の視点を持つと言うことは
孤独だと言うことでもありますよね。

愛嬌とフレンドリーが身体中から発散されているわたしには
無理な注文かもしれないな。
泣けてくるよ(TT)

 

 

舐めたらあかん

わたしは一度も犬を飼ったことがないので、
犬を飼う人の実態がよくわからないのですが
とても気になることが、ひとつあります。

それは、【飼い主の気持ち】です。
犬を飼って長くなると、だれもがそうとは限りませんが、
いちおう、自分がご主人さま、もしくは
上役のようなものになりますよね。
つまり、犬は忠実な部下のはず。

自分の方が立場が上なので、
たとえば新聞紙とか、ボールとかを取りにやらせる。
もし、犬の飼い主だったら、
どういう心構えをまず持つべきなのか。

犬を訓練するあるじならば、それをしつけ、指導し、
時には褒め、時に叱る。そうやって一人前のりっぱな成犬に育て上げていく、
というのが、飼い主のあるべき姿……と思う人もいるかもしれない。
しかしわたしの思う飼い主の最低限の矜恃とは、
「舐められるのはあかん」なのです。

なぜ、突然、舐められる話になったか。
今回、わたしははからずも、
他人に口出しするうるさいPTAのオバサンになったからなのです。

PTAのオバサンとそれが、どう関係するのか。
話はとびますが、トイプードルの話をします。
小型犬のトイプードルというものは、
愛玩犬として最近、ちまたでよく見かけるようになりました。
足元をちょろちょろ駆け回り
からだにいろんな衣装を着けて、
ナマイキです。

しかし、フレンドリーなはずのわたしの顔を見て
キャンキャンほえるのは、
ありゃどういうわけでしょう。
飼い主はそれを抱きかかえて散歩しています。

犬の散歩をするはずでしょ!
あんた、犬に舐められとるんとちゃうの!
わたしは、アレを見るたびに、
胸がムカムカしてきます。

ついにある日、エレベーター内部でツンとしたおしっこ臭。
ペット不可のマンションで犬を飼っている人がいる。
当然、管理人に言いつけました。

つまり、PTAのオバサンになったんです。
舐められるもんかと逆上した結果です。
わたしもイヤな女になったもんだね。

義母に言わないこと《パート2》

義母は、仏教徒なので、仏壇にお経を上げ、夫の心臓手術の成功や、
わたしの風邪が治ったことを仏さまに感謝します。
わたしはまったくスルーします。
彼女が亡くなったら、わたしは仏壇を処分すると
夫に言ってあります。

だってわたしは、仏教を信じてない。
信じていない人間がお経を上げるなんて
死者への冒涜だと思う。
お経を上げない仏壇は、不要。
ゆえに処分します。

と、夫に言うと、
「でも、家の宗教は尊重して欲しい」
と夫は言います。
「我が家の宗教は浄土真宗だから、せめて花ぐらいは替えてよね」

「ああ、だまされた」
わたしは言いました。
「あんたが、宗教は個人のものだって言うから結婚したのに、
先祖の宗教を押しつけるなんて」

夫は困ったようでした。
「押しつけるんじゃなくて、尊重して欲しいってだけだよ。
たしかにお経を唱えるのはハードルが高いだろうけど
花ぐらいはいいだろう?」

花だけ替えてたら、「尊重」したことになるんかい。
あんたの宗教観って、その程度のものなのかね。
もっとも、宗教というものは死んだ人のものじゃなく
生きている人のものだから、
花で済むなら別にいいけどね。

あなたの先祖代々の墓には入らないと夫に言いました。
子のないわたしたちは、だれかの先祖になることがない。
それにキリスト教は、個人と神の契約信仰ですから、
先祖がどうのというのとは、
本質的に相容れない。

それなら樹木葬にしよう、と夫は言いました。
自分もとなりに葬られたい。
無信仰の墓なら、いっしょでもいいだろ。
……仏教徒でしょ、あんた。

そんな口論を通じて考えたことは、
こういうことは、義母には言えないなあってこと。
義母の死んだ後にどうするなんて話したら、
彼女を悲しませたり、当惑させたりするでしょう。

キリスト教は、世界宗教ですが
日本的な風習には、なじめない部分が多い。
遠藤周作が苦労したのは判る。
はぐれクリスチャンとしては、
仏壇に花を替えるぐらいはするべきかも。

 

義母に言わないこと

いつだったか忘れましたが、
最初に日本へウクライナから難民が来たとき、
義母がTVを見ながらふしぎそうに、
「ウクライナの宗教ってなにかしら?」

わたしは、「あ、キリスト教だよ。代表的なのは
ウクライナ正教会のキエフ総主教庁、
モスクワ総主教庁系のウクライナ正教会、
ウクライナ独立正教会の三つの正教会と
東方典礼教会があるそうです」
義母はキョトンとしていたが、

「宗教が違うからって、なんで殺すわけ?」

まあ、そうだろうね一般的な日本人としては。
お義母さんも真言宗を信じてるけど、
そんなに熱狂的ってほどでもないようだ。

「宗教は、考え方のひとつだからね。
考え方が違うと、腹が立つこともあるんだよ。
宗派が違うだけで皆殺しにされたキリスト教徒も
いるしねえ」

滅ぼされたカタリ派がそれですな。

「宗教が考え方の一つ???」
義母は、理解不能という顔つきになりました。わたしは肩をすくめます。
「もちろん、そういうスタンスが一般的とは言わないよ。
それはわたしの個人的な考え方。
人には人の考え方があるんだから、
いちいちメクジラ立てないってのが
わたしのスタンス」

「へー」
義母は、目を丸くしていました。

「わたしは、お義母さんについて、いろいろ思うこともあるけど、
言わないことにしてるの。
だって、いがみ合うことになるもん」

わたしが言うと、義母は笑いました。
「じゃあ、あんたは心の中で、わたしといがみ合ってるわけ?」

うーん。そうなるのかなあ。
「いや、人には人の考え方がある。それだけのことと思ってるだけ」
義母は、ちょっとやけっぱちになったようでした。
「宗教なんて、カラスの勝手よ!」

わたしは、妄信的に自分の信念を押しつけてくる
エホバの証人みたいな人は
大嫌いなので、そういうマネをしないだけ。

「もしかしてにゃんちゃんは、にゃんにゃか教の教祖さま?」
義母が言う。
傷つくなあ。
わたしのキリスト道は、義母には理解されないことだけはわかったけど。

FBのイベント雑感

わたしはFBでいろんなコミュに入っています。
これまでに2つのコミュニティで
聖書に関するイベントが立ち上がっているのを見ました
(イベントは、複数ありました。聖書入門とか、聖書の預言とか、ノアの箱舟の話とか色々)。

『カルト宗教、信じてました』(たも著)によると、
主人公たもさんが聖書の訳文がひどいので
先輩信者に教えてもらっているうちに、洗脳されたとあります。こわーい。

もちろん聖書は外国の本ですから、訳文もいろいろです。
極端な例をあげれば、

(引用開始)
召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
聖書 新共同訳より
コリントの信徒への手紙一 7章21節

あなたは召されたとき奴隷だったのですか。そんなことを気にしてはいけない。しかし、もし自由の身にになることができるなら、
そうしたほうがよい。
聖書 フランシスコ会訳より
コリントの信徒への手紙一 7章21節
(引用終わり)

これじゃあ正反対ですね。
このように、聖書の正しさなんて、
日本語で勉強する限りアテにはなりませんし
原語で勉強したって、
聖書の意図することをちゃんと受け取れるのかどうか。
解釈の違いをめぐって対立する図式は、世界のあちこちに見られる現象です。

それが殺人にまで発展したりもしますから、気をつけねばなりません。

現代でも、たとえば神の命令のため輸血拒否で我が子を殺す人がいる。
その人は、「今」世界は飢饉や戦争、地震などが起こっているから
「世界は終わる」ので、救われたければ神を信じるしかない、と
説きます。

聖書には輸血拒否をしろと書いてないよ、と指摘すると、
「聖書の時代は輸血がなかったから」だって。
一字一句まちがいないと主張している以上、
聖書の時代に沿って現代科学をすべて拒否なさったらいかが?
コロナワクチン接種も、聖書に禁じられる行為かもよ?(笑)

「でもそういう宗派もありますよね、アーミッシュとか」
と言うその人。
アーミッシュも、カルトといっしょにされて迷惑だろうな(爆笑)

まあ、どんなイベントを立ち上げようと、参加は自由なんだし、
FBが介入していないんだから、わたしもBANされる危険は
おかしたくないので……

ただ、「どんな聖書」を使って、「どんな入門」をしているのやら
正直、疑問です。
共同訳を使っているならまだマシだけどねえ。
ひとりで対抗するのは不可能だし、世迷い言をいう
集団がキリスト教だと思ってる人がまた増えるなと思うと……

ゆううつです。

 

 

映画を見なくなりました

最近、映画を見なくなりました。
時間を取られすぎるのと、お金がかかりすぎるのが
欠点です。
わざわざ映画を見に行くより、
自宅に配信される映画を見た方がラクだし、
途中で中断してトイレにも行けるしね。

いちばん最近見たリアルの映画が、『君の名は。』でした。
これは、夫と義母を誘って映画館で見ましたが、
評判の割りにはあまり、面白くなかった。
わたしにとって、既出のアイデア
「時間差入れ替わり」
(このアイデアは、洋ドラ『タイムマシーンにお願い』
に使われている)
があったので、興ざめっていうところ。

以後、もっぱら、Amazonプライムのネット映画を見てます。
最近見たプライム映画は、
『ピーター・ラビット』。
これはかんぺきに、ハズレでしたね。

なにがハズレなのか。具体的に言うなら、
ピーター・ラビットがリアルすぎて可愛くない。
それに、ウサギたちが悪ふざけばかりしていて、
共感できない。
イタズラはいいけど、爆弾まで出てくると、
やり過ぎ感はんぱない。

でも実は『ドライブ・マイ・カー』は
見てみたいリアル映画なんですよ。
広島の風景が、使われているそうな。
特に呉とか御手洗(みたらい)がロケ地の中心らしい。
わたしは呉には、たびたびおじゃましましたし
友だちもいるので、共感できそうです。
アカデミー賞も獲りましたね。

と、思ってAmazonプライムをチェックすると、
ありました!
『ドライブ・マイ・カー』。
これは見たい!
しかし現在、わたしはスタトレ攻略中のため
時間が取れません……TT

アカデミー受賞作品が
わたしのテイストかどうかは判りません。
作品紹介で使われている画像を見る限りじゃ、
少々、退廃的なムードがあるみたい。

たとえば、女と男が、
ふたりして火の点いたタバコを車から差し上げるシーン。
なんの象徴かは、だいたい判る
(恋の焼けぼっくいってこと)

でも、広島じゃけーね!
何と言っても、それがいちばんじゃけーね!
村上春樹は広島をイメージして作品を書いたんじゃない、
けど、身近に感じる。
本を、読んでみようかな。

雑ネタあれこれ

今日も、一エピソードにまとめることのできなかったネタを
羅列してご紹介します。

☆コンピュータでレガシーになったもの
フロッピーディスク、MD、Aドライブ
30年前――
あるクリエーターが、編集さんからウイルス入りのMDを渡されてがっくり。
「これで仕事をしてください、ただしウイルス入ってます」
最近ではMDがなくなり、メールでお仕事しているようです。
音楽業界もMDがなくなった。
LPとテープは健在です。

☆老い――スタトレ『死の宇宙病』における主人公カークの場合
――何度も繰り返して同じ事を命令する
義母の場合――耳が遠くなった、足が弱くなった
義母はまだまだ、若い。耄碌《もうろく》してないから。
しばしば昼寝するし、忘れっぽくなってるけど、元気です。
ところで、義母は3月に手術の予定でしたが、10月に延期になりました。
ペースメーカーの電池、それまで持つのかな。

☆紛失(グリーンピアせとうちでなくしたもの)
手巾《ハンカチ》、ラジオホルダー、イヤホン。
ラジオホルダーというのは、
ラジオプレイヤーを入れることの出来る
黒い袋状のものです。
わたしはiPodは持ってませんが、それに近いものを持っていて、
ホルダーに入れて持ち運びます。
グリーンピアせとうちに行くとき、
このホルダーに入れたイヤホンを使って、
タブレットの動画を見る予定だったのが、
タブレットとWi-Fiとの相性が悪くて出来なかったので、
イヤホンごと置いてきてしまいました(すっかり忘れていた)。
手巾はすぐ買ってもらえましたが、
今回やっと買えたホルダーは最後の1個だよ! と夫。
なくさないようにしなくっちゃ。

☆創作に使う紙、もったいない
夫は、エッセイの下書きに使っているノートを、
「捨てろ」。
そんなもったいない!
散らかすから叱られる。下書きはチラシにすべきか。
最近は、チラシの裏も広告が入ってる。ムリぽ。
でもね、夫は捨てろと言いつつも、
戸棚の中にいろんなものを残しています。
自分はいいのかい。