25年11月16日時点海田にて

🌻 海田の路地と、時を忘れた陽だまり

 

海田の町を歩いていると、すうっと冷たい空気が肌を撫でた。もうすっかりだ。

通り過ぎる車や、どこかから聞こえる生活の音。アスファルトの道脇に、そっと佇むパン屋の看板を目に留める。生活の匂い、焼き立ての香りを想像するだけで、人の営みがじんわりと心に染み入る。

ふと足元に目をやると、マンホール蓋のポップな意匠に思わず笑みがこぼれた。消防車だろうか、愛らしい絵柄の下には「消火栓」という文字。日常の中に紛れ込む、ささやかなユーモアと、この町を守る確かな力が同居している。


 

🌼 ひまわりの「時差」

 

そんな日常の風景に、わたしは息をのむような違和感を見つけた。

錆びた金網の向こう、学校か、あるいはかつての校庭のような場所。そこに、季節を間違えたかのように、力強くひまわりが咲いていたのだ。周りの草はすでに秋色に染まり、地面の紅いコキアが季節の巡りを雄弁に語っているというのに。

夏を象徴する、あの鮮烈な黄色。太陽に向かってまっすぐに首を伸ばす、その不屈の姿。 「ああ、あなたたちはどうして、今、ここにいるのだろう?」

わたしの暮らす世界では、花には花、季節には季節の定めがあり、人はそれに従って生きている。けれど、このひまわりたちは、わたしたちの定めたの境界を軽やかに踏み越えていた。

人生にも、きっと季節外れの出来事はある。時期尚早と思われた出会い、あるいは、もう遅いと諦めかけた再起。この花は、人の暦社会のルールとは無関係に、ただ、その生命の衝動に従って咲いたのだ。

その、ただひたすらに咲き誇る姿を見て、わたしの胸に一つの問いが湧く。わたしは、わたしの持っている「」を、本当にわたし自身のために使っているだろうか? 誰かの決めた季節に囚われず、このひまわりのように、今、咲きたい時に咲く自由強さを、わたしは持っているだろうか。

冷たい秋風の中で、温かい陽だまりの色を放つその花に、わたしは静かに教えられた気がした。生きるとは、自分の内なる衝動に素直であること。それが、たとえ誰かの目には「季節外れ」に映ったとしても、だ。

 


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